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新秋津キリスト教会のブログへようこそ。 初めての方はまずカテゴリー内の「最初にお読み下さい」をご覧下さい。
2012.10.04 Thursday

障がい者の家族・ご本人の話し合いの場「心の泉会」開催中

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    新秋津教会では、心の病の方やその家族のための憩いの場・話せる場「心の泉会」を開催しています(毎月第3水曜日午前10:30より)。定期的に開かれますので、ご本人やご家族の方、自分の思いを語ることのできる場ですので、ぜひいらしてみてください。
    世話人 牧師・勝本正實(社会福祉士、精神保健福祉士、相談支援専門員)


    2010.06.10 Thursday

    人は死んだらどうなるか

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      人生儀礼について 


      人は死んだらどうなるか

       

       主イエスが死から肉体を持って復活されたとき、弟子たちは信じられず、また期待もしていなかった、と聖書は記しています。主イエスが前もって何度も死と復活を語っておられたというのに、頭でわかっていることと本当に信じていることとの問には距離があります。

       

       私たちの場合はどうでしょう。以前、日本のクリスチャンへの信仰に関するアンケート調査を思い出します。驚いたのは体の復活を信じると答えた方が半数を超えていたものの、みんなではなかったという点です。教会で聖書がそのまま語られていない事実があるのか、精神的・象徴的な意味にすりかえられてしまい、常識的な理解にとどめようとされているのかもしれません。体の復活を信じるということは、今も信仰を持つ者へのまじめな問いかけなのです。

       

      日本の国で霊魂の存在を信じる方は多くいても、自分の体の行く末を考える方はどれくらいいるのでしょう。以前、「人は死んだらゴミになる」という言葉を見かけました。退廃的で享楽的な生き方を象徴する悲しい表現です。昔の日本では死んでも「別人」、しかも「血縁」に生まれ変わることを期待し、特に小さな子どもはあえて家の近くに埋葬したようです。しかし一般には、遺体の復活を恐れ、縛ったり、ひざを折ったり、石を抱かせたりして埋めたようです。つまり、墓地は怖い所だと考えられていました。それは私たちの国では、生まれ変わりを願う信仰はあっても、体の復活は望まず、土に返すものであり、「別人」として生きたいと考えられていたからです。

       

       ところが徐々に時代がくだるに従い、遺骨に対するこだわりや墓への執着が増し、反対に見えない世界への関心が薄れてい造泙靴拭死んだら「あの世に行く」というより、「墓で暮らす」というような現実的な思いが強くなっています。墓に関する以前の暗さは消え、「死後のすみか」として、日当たり良好、風光明媚(ふうこうめいび)な場所を求め、墓の形や色や方向にこだわります。まるで、建売住宅を探している風景です。

       

      自分が見て経験していることしか信じられなくなっていく私たちに、復活のできごとは、「あなたは神のカを信じるか」と問いかけています。信仰は、私たちの常識や、私たちの経験以外にも真実があることを教えてくれるのです


      2010.06.09 Wednesday

      聖書が語る死の二つの意味

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        人生儀礼について 


        聖書が語る死の二つの意味

         

         病院には四号室がまずありません。時にはホテルやアパートにも見当たりません。過剰と思えるほどに四=死という連想にとらわれています。これは多くある忌み言葉のたぐいであり、言霊信仰(ことだましんこう)が背景にあって、不吉な言葉を口にすると現実になるとの縁起をかつぐためです。また死を穢れ(かがれ)・不浄と考えることが長く息づいており、清めの塩に代表される習慣が残っていることからもうかがえます。仏教が日本に受容された理由のひとつに、死者を葬る役割を引き受けたことをあげることができます。

         

         死にまつわることで、昔から大切にされてきたことの一つに、死に際、散り際を大切にするという考えがあります。「終わり良ければすべてよし」ということで、死を迎える時がおだやか・安らかであれば先々も幸せであろうとか、生前の行いが良かったからだと理解しますが、もし万一、苦しみの中で死んだり、非業の死を遂げたりすると、陰口さえ言いかねない雰囲気が残っています。これは死を美化する「いさぎよさ」、「みごとさ」が武士の精神として広まったものと思われます。しかし実際には、死に至る状況は千差万別であって見た目ではわからないものです。

         

        さて、死について聖書が「罪の結果」であると教えているのは、聖書を知る人にとって常識です。しかし別の面があります。つまり、罪を犯すようになつた人間にとって死は「神のあわれみ」でもあるのです。創世記 三章二十二節には「手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように」されたと記されています。罪を犯し、病に苦しみながら、人生の苦労を背負いつつ生き続けることは、苦痛であり恐ろしいことでもあります。それよりむしろ罪の人生に一度終止符を打ち、救いの道を備えて、復活の生命に生かすことを神は準備されたのです。

         

         聖書が死について警告するのは、死そのものの恐ろしさではなく、死後のさばきがあるからです。ですから、今の人生の大切さを説き、死から新しい生命への救いを語るのです。不吉な言葉や病気の苦しみ、寝たきりになることへの不安にとらわれるのではなく、今の時を神とともに生きることが、最も良い死への備えであり、確かな希望の道です。いかに死ぬかというよりも、死に至るまでの人生をいかに生きるかが大切ではないでしょうか。


        2010.06.08 Tuesday

        「アバ、父」と呼ぶ信仰

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          日本人の精神風土について 


          「アバ、父」と呼ぶ信仰

           

          私たちの世界に主イエスが来られたことは、「神」という方を知るうえでも大きな意味がありました。イエスは私たちに、聖く偉大な神を身近な「お父さん」と紹介してくださったのです。

           

           日本人は甘えの感情が強いと言われますが、それは宗教面においても同様です。日本の神々の中には怖い神もありますが、話のわかる優しい神が多くいます。仏教においても観音信仰や阿弥陀仏信仰は、慈悲に満ちた、すべてを抱擁する仏を対象とするものであり、仏は男性でありながらも母性豊かな甘えをも許す存在として語られています。私たちは身近な両親などを通して神や仏を理解します。宗教には信仰の対象(神や仏)に対して程度の差はあっても、父性と母性を見いだしています。

           

           聖書には「甘える」という言葉は出てこないそうです。言葉としてはそうであっても、それを連想させる言葉やできごとは記されています。主イエスに対する弟子たちの言動の中にも、使徒たちが教会に宛てた手紙の中にも出てきます。また主ご自身が教えてくださった主の祈りの最初の言葉である「アバ、父よ」で、信頼をもって親しく呼びかけることを許してくださっています。

           

           甘えるという青葉は「相手の好意に寄りかかる」という意味を持ち、言葉や身振りを表し、平安時代にはすでにこうしたことが男女において、そしてやがて親子の間柄においても認知されてきました。

           

          甘える、甘えられることをよしとする風潮が少なくなっている今でも、心の奥底では確かに求めているような気がします。しかも、それは年齢に関係なく、教会においても甘えの関係が存在し、居心地のよさや、逆に人間関係のもつれの一因にもなっています。

           

          主イエスが語られたルカの福音書十五章の「放蕩息子」では、弟も兄も各々において父親(神)に甘えています。弟は赦しを求めることにおいて、兄は、弟を赦す父親の寛容さに嫉妬する面において、甘えているようにも見えます。

           

           主イエスはどんな幼少時代を過ごされたのでしょう。きっとヨセフとマリヤの愛情のもとで、甘えを通って自立されたのでしょう。ですから、主も弟子たちが甘える言動をしても許し、受容されたのです。主が父なる神を信頼し歩まれたように、私たちもまた、私たちのことを何でも知っていてくださる方として、甘えて祈れます。本当は何の資格も権利もないのに。そこに恵みと安心があります。


          2010.06.07 Monday

          日本人は神を見失った

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            日本人の精神風土について 


            日本人は神を見失った

             

            街から緑が消えていく中で、豊かに残っている所は公園か神社仏閣ぐらいです。私たちの生活周辺に必ずある神社は、宣伝や布教活動を特にしなくても、習慣や行事の中に存在感を持っています。神道は私たちの国で生まれ育ったもので、文化や伝統の中に根を張り、「宗教」としては意識されにくい面があります。

             

            仏教との出会いは、神道に大きな影響をもたらしました。神道と仏教は1500年におよぶ歴史の中で、時に友人であり、時に敵対し、時にパートナーのような歩みをしてきました。神道は本来、自然そのものが宗教の対象であったことから、自然を神の住まい、社と考え、身近な山も丘も神聖な場所であって神々の座する所と考えていました。神々は霊的な存在でしたので、依代(よりしろ)を設け、俗人が近づくことを避けました。ところが、その神道も、荘厳な仏教の建物や仏像に刺激されて、神々を社に鎮座させ、しかも御神体として神像まで設けるに至って、里や町中に祀るようになりました。そして、参拝する人にとっては便利になったものの、本来神道の真髄である「清さ」や「畏敬」の意識が薄れ、寺院と並立するようになったのです。

             

             神道をみると、部分的に聖書の神と似ており、神は霊的な存在と考えられ、近寄りがたい清さがあり、暮らしを支え見守る存在として理解されていることを私たちは知ります。言うまでもなく、日本の神々は聖書の神と多くの点で違っているものの、神道の人たちは、直感的にその気高さを感じ取っていました。神道は初詣や祭り、七五三を見るかぎりでは相変わらず盛んに見えますが、その基盤は少しずつ揺らいでいます。なぜなら歴史とその信仰をみると、神道が神道としてその特色を形成してきたのは、畏敬の念を起こさせるような豊かな自然があったことと、家族や地域の中に強い共同体意識があったことによるからです。だから自然を大切にするという思いを育ててきたのです。しかしこれらが壊れていく中で、どこによりどころを求めていくのかが問いかけられています。

             

             神道は、自然そのものを神とみたことにより、創造者なる神を自然の中に埋没きせてしまいました。しかし、主イエス・キリストは私たちに、隠された神を明らかに示されたのです。ここに福音があります。

             

             神道は自然の美しさや恵みをたたえますが、聖書はそれを造られた神の、私たちに対する愛を教えています。


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