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2020.09.17 Thursday

9/20 礼拝説教「救われるためには信仰」

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    2020年9月20日

    主日礼拝

    説教 ギャリー•カルソン

    マルコ5:21−34

    「救われるためには信仰」

     

    34年前に、私たち夫婦が日本語学校を卒業して、群馬県伊勢崎市に引っ越しました。そこでの生活をするために、スーパーや薬屋はどこにあるか、知る必要があって、近所の人たちが教えてくれました。でも病院とか、医院はどこにあるかは知りませんでした。その必要はまだ感じていなかったためでしょう。

     

    そのある日、ドイト、というホームセンターで買い物をしている時、2歳の息子、アダムが転んで、怪我をしました。上の唇の深い傷があって、出血が大変でした。近くに病院か、医院はあるか、と店員に聞いたら、伊勢崎市民病院への道を教えてもらいました。車で5分の道で、そこの救急室ですぐに診てもらって、助かりました。やっぱり、必要を感じている時、私たちは動いて助けを求めますね。

     

    今日の聖書の箇所で、二人がイエス様に癒しを求めることが書いてあります。一人は会堂司のヤイロという人で、その娘が死にかけているところでした。「娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」、と父親がイエス様に懇願した、と23節にあります。それでイエス様と弟子たちがヤイロの住まいに向かって行きました。イエス様のみ元に集まった群衆も一緒に行きました。

     

    ところが、イエス様に癒しを求めているもう一人が、道の途中で登場します。今日の聖書の箇所と説教はこの女性を中心にして、ヤイロとその娘のことは私の次回の説教にします。

     

    ここで登場する女性ですが、ヤイロの娘と同じような、緊急で、死にそうな状況ではありません。逆に長い間、なんと12年間患っていた出血が問題です。この女性について考えて行きたいです。一つの病と12年間付き合ってきたのは本当に長いですね。そして治るために、何人かの医者によっていろいろな治療をしてみた結果、治ることなく、お金がなくなってしまっただけです。

     

    その当時の長血のための治療について、タルムッドというユダヤ教の書物に書いてあります。一つの治療はゴム、明礬(みょうばん)そしてクローカスという花、この3つのものを粉にしてワインに混ぜて飲むことでした。もう一つはワインで茹でたネギを食べて、誰かが大声で「あなたの出血から立ち上がりなさい」と命令することでした。また、駝鳥の卵を焼いたことによってできた灰を布に包んで歩き回る治療もありました。このような治療を求めて、この女性は全財産を費やしてしまったらしいです。本当にかわいそうですね。

     

    でももう一つのことでこの女性は哀れな毎日を過ごしていたと思います。それは、モーセの律法に書いてあることです。レビ記15:25―27にはこうです。「女に、月のさわりの期間ではないのに、長い日数にわたって血の漏出があるか、あるいは月のさわりの期間が過ぎても漏出があるなら、その汚れた漏出がある間中、彼女は月のさわりの期間と同じように汚れる。その漏出の間は、彼女の寝た床はすべて、月のさわりの時と同じようになる。彼女が座った物はすべて、月のさわりの間の汚れのように汚れる。だれでも、これらのものに触れた人は汚れる。その人は衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方まで汚れる。」

     

    今現在私たちが経験している新型コロナウイルスのパンデミックに合わせて考えたら、この律法は宗教的なことよりも、イスラエルの共同体を守るための疫病感染対策になっているのではないでしょうか。

     

    とにかく、この女性は12年間も、このように気をつけなければならない生活をしてきました。自分が汚れている。人に触ることは許されない。自分の服、椅子、マットなどに、他の人は触ってはならない。このような制限のある毎日でした。いつもこのようなことを意識していなければならないのです。

     

    でも彼女はイエス様のことを聞きました。このイエスには、人の病気を癒す神の力がある、というニュースが耳に入りました。そしてこのイエスが自分の町、近所に来ているということがわかったら、この女性はイエス様に向かって行きました。自分が癒されるチャンスだ!と思っていたのです。

     

    この女性がイエス様と歩いている群衆の中に入ってみました。人に触ってはならない、という制限を気にせず、イエス様に近づいていこうとしましたね。そして頭には一つの思いしかありませんでした。「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる。」(28節)実はこの当時、その考え方があったそうです。同じマルコの3:10はこう書いてあります。「イエスが多くの人を癒されたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとしてみもとに押し寄せて来たのである。」そのほかに、6:56節ではこうです。「村でも町でも里でも、イエスが入っていかれると、人々は病人たちを広場に寝かせ、せめて、衣の房にでもさわらせてやってくださいと懇願した。そして、さわった人たちはみな癒された。」

     

    群衆が歩いている中で、女の人はイエス様の衣に触れてみました。「すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒されたことをからだに感じた。」、と29節にあります。すごいですね!

     

    しかしここで全てが終わったのではありません。イエス様は、ご自分のうちから力が出て行ったことに気がつかれした。「だれが私の衣にさわったのですか。」、と一緒に歩いている人たちに聞かれました。押し迫っている群衆の中ですから、その質問はおかしい、と弟子たちが驚いたようです。私たちが満員電車に乗っている時に大声で同じ質問をしたら、笑われるでしょう。しかしイエス様はわかっておられました。人の病気を癒す、神の力がご自分から出たのだ、と。

     

    自分のしたことをこれ以上隠すことができないと思っていたか、恐れながら女性はイエス様の前にひれ伏して、告白しました。何を恐れたでしょうか。癒されるのはめでたいことで、神様に感謝を献げるべきことではないでしょうか。でも、モーセの律法のことを思い出してください。出血で患っていることで、密集する群衆の中にいることは許されないことです。聞いたら、人たちが怒って女性に対してどういうことをするかわかりません。イエス様も怒るかもしれません。

     

    イエス様の前に来て、自分のしたことをはっきり認めるのは勇気が必要だったに違いありません。しかし、イエス様は彼女を叱ることなく、次のことを言われました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」(34節)

     

    イエス様の言葉で二つのところに注目したいです。一つは「安心して」です。元のギリシャ語では、「平安/平和で」と理解すべきです。そしてイエス様が話されたヘブル語では「シャロム」です。神様が完全な平安、健康、すべての祝福を表す単語です。

     

    もう一つのところは最後の方の「苦しむことなく、健やかでいなさい。」です。別の訳にすると、「これからずっと、その病から解放され、元気でいなさい」となります。この二つのことで、イエス様はこの女性を祝福されました。

     

    そしてイエス様はこの女の人を褒められたところに戻りたいです。「あなたの信仰があなたを救ったのです。」これはどういう意味でしょうか。女性を癒したのは、イエス様から出た神の力だったのではないでしょうか。もちろんそうです。でもイエス様によって癒しの力が与えられることを信じることがなかったら、この女性はイエス様に近づくことはなかったでしょう。

     

    信仰によって、救われる、ということです。使徒パウロも、エペソ人への手紙、2:8で同じようなことを書きました。「この恵みのゆえに、あなたがた信仰によって救われるのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」この女性の技でも、努力でもなく、イエス様の力によって体が癒されました。でも彼女は神様から与えられた信仰をもって、イエス様の衣に触ることにしました。

     

    この女性が経験したのは、体の癒しです。でも、この箇所で使われている単語は「癒された」というのではなく、「救われた」です。4つの福音書には、「罪の赦し」、「癒し」、そして「救い」が同じようなことを表して使われています。それは、霊肉ともに、イエス様にある恵みを経験することです。イエス様を信じることによって、罪が赦されるのは、死んだ後天国に行くことができる、という意味だけではありません。それだけだったら、イエス様を信じてから天国に行くのを待つしかないわけですね。「救い」というのは、人間が全面的、毎日のすべての経験の中に神様の祝福、その「シャロム」が与えられるのです。体も、人間関係も、日々の歩みの全ての中で、イエス様の力によって与えられる「癒し」の祝福があります。

     

    私たちは「霊的な」こととそうでないことをよく分けて考えますが、聖書にはその区別がありません。私たち一人ひとりは神様によって造られ、神の愛の対処であるゆえに、神様は私たちのすべてのことを心に留めてくださいます。ですからどんなことがあっても、祈りをもって神様の助けを求めることができます。罪の赦し、体の癒し、人間関係の回復、その他なんでもです。

     

    イエス様がご自分の衣に触った人を探されたのは、その女性と顔を合わせて話し合いたかった、と私は感じます。その女性が癒されてからすぐに帰ってしまったら、イエス様との関係はできていなかったでしょう。「誰だったか」と聞かれることによって、女の人との人間関係が初めて成り立ったのです。

     

    私たちが祈りによってイエス様に何かを求めるのは、イエス様を道具のように利用することはありません。イエス様に愛されて、日々イエス様と共に歩んでいるわけですから、その愛の関係の土台で祈るのです。信仰によって私たちはイエス様の愛を受けて、それに伴うすべての祝福が与えられます。癒されます。罪が赦されます。救われます。

     

    今日、あなたはイエス様に何か求めていますか。勇気を出して、大胆にイエス様に近づいて、イエス様に触れてみてください。信仰をもって、できることです。その信仰によってイエス様から救い、「シャロム」をいただいて、歩みましょう。


    2020.10.29 Thursday

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