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2020.07.29 Wednesday

8/2説教「医者を必要としていますか」

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    2020年8月2日

    主日礼拝

    説教 ギャリー•カルソン

    マルコ2:13−17

    「医者を必要としていますか」

     

    新型コロナウイルスの影響で、私たちは色々なことを経験することができなくなってきました。例えば、この間の4日間連休で、”Go To”キャンペーンがありましたが、結局東京から他の地域に行くことはダメ、他の地域から東京に来るのもダメ、と言われるようになりましたね。

     

    もう一つのことは友達とどこかで集まって一緒に食べることです。Zoom、FaceTime、あとは電話で人と話し合うことができますが、好きなレストランで一緒に食べるのは特別な楽しみがあります。それはどうしてでしょうか。誰でも食べなければ生きることができないのですが、家族と、友達と、職場の仲間と食べることによって、人間関係がもっと親しくなって、楽しくなるのです。

     

    私が長いこと日本で暮らしてきたことで気づいたのですが、自分の出身国アメリカよりも、日本の文化では、一緒に同じ物を作って、同じ器から口に運ぶ食べ物がたくさんあります。お鍋、すき焼き、お好み焼き、そういった食べ物です。一緒に作って、同じところからお箸で取るのは楽しいことです。

     

    他の人たちと一緒に食べるのは人間関係で大事なことですね。聖書の中でも同じことを見ることができます。旧約聖書において、神様に選ばれた民であるイスラエルの毎年の信仰生活の中で、一番大事なことは過越の祭りでした。神様が奇跡的な力を持ってイスラエル人をエジプトの奴隷制度から救ってくださったことを記念するために、子羊を屠って家族ごとに食べる習慣でした。食事ですね。

     

    そして新約聖書では、過越の祭りの習慣を、イエス様が弟子たちと共に守りました。「最後の晩餐」の時、子羊を食べてからイエス様は新しいことをお定めになったのですが、それは聖餐式です。パンを食べること、杯を飲むことによって、イエス様が十字架につけられた体、流された血潮を覚える礼典です。食事ですね。

     

    ただ、それだけではなく、イエス•キリストが3年間の地上の働きで、人々と食事をするのが大事にされていたミニストリーであったことは4つの福音書によってはっきり記されています。このことについて今日の聖書の箇所から考えてみましょう。

     

    前に、私たちはイエス様の最初の4人の弟子が選ばれたところを学びましたね。今日の箇所もそうです。今回は漁師ではなく、取税人でした。レビ、と言う男の人はガリラヤ湖のほとりにあった町カペナウムに住んでいて、税金を取る仕事をしました。ある歴史資料には、エペソと言う(現在のトルコの西にある)町で魚の税金があった、と書いてあります。もしかしたら、このレビは漁師たちから、あるいは市場で魚を売る人たちから、税金をとったかもしれません。

     

    この時代の取税人は評判が悪くて、愛されていなかったそうです。多分それは二つのことのためでしょう。一つは、税金を同胞のユダヤ人から取って、イスラエルを支配しているローマ帝国に渡したからです。もう一つの理由は、税金の決まった金額以上にとって、その差額を自分の財布に入れてしまったからです。

     

    とにかく、ユダヤ人の社会の中で、取税人として仕事をしている人たちは除け者でした。誰も一緒に食べる人はいなかったらしいです。その当時の習慣では、取税人となったら、その人は裁判の時に証言することが許されなくなってしまいました。彼はシナゴグ(ユダヤ人会堂)から除外されました。そしてその人の恥は家族まで及んだそうです。「類は友を呼ぶ」というようなことで、同じ仕事をしている人たちや他に社会から嫌われる人たち以外に、友達がいなかったのです。

     

    このような取税人であるレビをイエス様が弟子として呼ばれました。レビが仕事をしているところをイエス様が通りかかったら、「私について来なさい」と言われました。地上の3年間の働きで、特に最初の方、イエス様はカペナウムを拠点とされたので、レビはイエス様のことを前から知っていたはずです。それにしても、その場でレビが仕事を捨てて、イエス様に従ったことはすごいことですね。

     

    この箇所に書いていないことですが、同じ町に住んでいたペテロたちはこの取税人をよく知っていたはずです。職業が違う、ということではなく、取税人は悪い人に決まっている、という思いで、ペテロたちはレビを見下して、嫌っていたでしょう。しかしイエス様がわざとこのような人たちを合わせられました!

     

    次に、「イエスは、レビの家で食卓に着かれた」とあります。このことも、その当時の考え方ではありえないことでした。なぜかというと、神様のこと、その律法を教えるラビ(先生)であるイエス様は絶対にレビとその仲間たちと食べるはずがない、と。パリサイ派の律法学者たち何人かがこのことを知って、イエス様のことを厳しく批判しました。この人たちにとって、レビとその仲間たちはモーセの律法を無視していて、勝手に生きているから、彼らは下劣な人たちだ、と決めつけました。

     

    どうして一緒に食事をしてはいけない、と律法学者たちが思ったでしょうか。私たちの世界を今煩わすウイルスに合わせて考えましょう。ウイルスの感染、特にクラスタの問題は、人たちが一緒に集まって食べたり飲んだりすることが原因になることはよくありますね。律法学者たちの考えでは、あのような「罪人たち」と一緒に食べることによって、その悪さが移ることになる、というふうに思っていました。罪の影響を防ぐためのマスクはもちろんなかったのですが、少なくともそのような人たちと一緒にいること、特に一緒に食べることは避けるべきだ、という考え方ですね。

     

    しかしイエス様がわざとレビたちと食事の機会を求められたわけです。一緒に食べることによって、イエス様はこのような人たちを抵抗なしに受け入れる、歓迎することを示すことができたのです。

     

    その行動に反対する律法学者たちに対して、イエス様は比喩を用いました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」このことで、イエス様は律法学者の考えていることをある程度賛成されました。つまり、レビたちは確かに罪人です。しかし罪人が病人に似ている、という比喩で、イエス様がご自分を医者とされます。医者が病人から離れるのではなく、近づくはずです。それは病人を癒すためです。

     

    そういうわけで、イエス様は罪人を招く、と言われたのは、「私はその人たちの罪を赦し、神様の愛と恵みを提供する働きをされているのだよ」、と律法学者たちに反論しています。そのような働きをするためにイエス様が来られたわけですから、罪人に近づいて、一緒に食べるのは当たり前だ、ということです。

     

    ここでマルコの福音書のこの箇所に出ていないことを知らせます。もしかしたら皆さんの中ですでにわかっている方がいらっしゃるかもしれません。それは、このレビ、という名前の取税人にはもう一つの名前がありました。マタイです。そうです。マタイの福音書を書いた、イエス様の特別選ばれた12人の使徒の一人です。

     

    レビ、という名前は多分この人が親からつけられた名前でしょう。それでは、マタイ、という名前はどこから来たでしょうか。定かではないのですが、イエス様ご自身がつけられたのではないか、と言われています。この「マタイ」という名前は元々のヘブル語の発音では「Mattityahu」です。そのヘブル語の意味は、「神のプレゼント」だそうです。素晴らしい名前ではないでしょうか!

     

    そしてこの取税人であったレビが周りの人に嫌われたにも関わらず、イエス様との出会いによって、全てが変わりました。彼はカペナウムの除け者でしたが、今は神様から与えられたプレゼント、というアイデンティティーと価値を持つ人になりました!確かに医者で癒し主であるイエス様がこのレビの心、その人生を治してくださいました。

     

    このレビ/マタイのことで私たちは大事なことを学ぶことができると思います。私たち人間はみんな罪人ですが、そのようなことについて私たちがどう考えているでしょうか。パリサイ派の律法学者たちと同じように、自分の良さと正しさを頼りにして、他の人を見下すことができます。あるいはレビと同じように、自分の足りなさを認めて、イエス様の愛と恵みに惹かれて癒し、赦しを求めることができます。

     

    もう一度言いますが、この聖書の箇所で、イエス様がレビとその仲間たちと食事をしました。ここでイエス様は神の国の到来を部分的に実現することができました。人たちと一緒に食べることを通してですね。残念ながら、律法学者たちは一緒に食べていなかったようです。招待があったかはわかりませんが、あったとすれば、彼らは断ったはずです。

     

    私たちは今日、どうして礼拝のために集まっていますか。自分が良い人、正しい人だと誰かに示すためですか。あるいは逆に自分が足りない、弱い、罪人であって、助けを求めに来たでしょうか。そのような人を、イエス様が憐みと恵みを持って招き、喜んで迎えてくださいます。

     

    イエス様を頼りにして、今週も皆さんと共に歩んで行きたいです。


    2020.08.11 Tuesday

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