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2020.07.16 Thursday

7/19 説教「友をイエスのもとに連れて行く仲間」

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    2020年7月19日

    主日礼拝

    説教 ギャリー•カルソン

    マルコ2:1−12

    「友をイエスのもとに連れて行く仲間」

     

    私の前回の説教では、イエス様が地上の3年間の働きを始められた箇所を見ました。マルコ1:15「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」これはイエス様の最初の説教、宣言でした。ただ言葉による働きだけではなく、イエス様は人から悪霊を追い出したり、病人を癒したりされました。確かにこのような力あるわざによって、神の国、神の支配が近づいてきたことを多くの人々が見たのです。そのことでイエス様の噂が広まって、多くの人々がイエス様のもとに集まりました。

     

    今日の聖書の箇所で、イエス様がガリラヤ全域を回って、ユダヤ人会堂で説教したり悪霊を追い出したりされてから、働きの拠点となったカペナウムに帰ってこられました。2章1節では、イエスは家におられるとあります。これは多分シモン•ペテロの住まいでしょう。そこにイエス様がおられるニュースが伝わるだけで、多くの人々が集まりました。イエス様の教えを聞くためですね。

     

    ここに不思議なことの連続が起こりました。まずは何人かの人たちが病人、中風の人を連れてきました。その人たちの中で、4人は病人が寝ている寝床を担いでいました。もちろん、この人たちはイエス様に病んでいる仲間を癒してほしいと思っていたのです。ただ、群衆がいるから、家に入ることができなかったので、屋上に上がって、屋根のある部分をはがして穴を開けました。これは多分、畳を一枚床から取り上げると同じようなことでしょうか。その穴を通して病人をイエス様のみ前につり降ろしました。これを見ている人たちはどんなにかびっくりした事でしょう。

     

    しかし次に起こったのは特に集まる人たちを驚かせました。イエス様が病人に「子よ、あなたの罪は赦された。」と言われました。皆さんはそれを読んで、どう思いますか。「病」と「罪」、そして「癒し」と「赦し」とは全く別の問題だ!と言いたいでしょうか。でもこの当時の人々は違います。病気とは、場合によって罪に対する神様の罰だと、一般的に思われていました。別の時、イエス様の弟子たちも、生まれた時から目の見えない人を見たら、「先生。この人が盲目で生まれたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」とイエス様に聞きました。(ヨハネの福音書9:2)

     

    しかしこの中風の人のことで、イエス様が「あなたの罪は赦された」と言われたのはそのような意味でしょうか。この人が病気になったのは、神様に対して罪を犯してしまったためでしょうか。

     

    私は三浦綾子の小説が大好きです。短期宣教師として日本に初めて来た時、「塩狩峠」の英訳を読みました。数年後、今度は長期宣教師として日本に戻って日本語を集中的に学んでから、少しずつ三浦さんの他の小説を読んでいきました。その中で、私の一番好きなのは「泥流地帯」です。歴史的事実に基づいたフィクションです。それは、1925年5月、北海道の十勝岳が急に爆発して、出てきた溶岩が山の頂上に残っている雪と混ざって、泥流となりました。その泥流によって、山の近くにあった沢に住む144名の人々が命を奪われました。

     

    「泥流地帯」の主人公の兄弟二人、耕作とその兄拓一は、泥流によって妹と祖父母が亡くなりました。死別の悲しみの中に、耕作はある人の話を聞きました。「心がけのいいもんは助かるよ。わしらカジカの沢のもんは、よっぽど心がけがいいんだね。」亡くなった自分の家族の人たちはみんな真面目に生きていたのに、と耕作は思いました。後で、拓一兄さんに言いました。「こんなむごたらしい死に方をするなんて……まじめに生きていても、馬鹿臭いようなもんだね。」

     

    良い人、良いことをしている人はどうして苦しまなければならないか、というのは「泥流地帯」のテーマです。私たちも同じように考えることもあるかもしれません。2011年3月11日、津波によって多くの人たちが亡くなったのはなぜでしょうか。最近のこととして、熊本県や他の地域で洪水と土砂崩れでどうして人たちが命を落としてしまったでしょうか。なぜ新型コロナウイルスで私たちが苦しめられているのでしょうか。

     

    聖書を調べても、はっきりした答えが出ません。私たち人間が神様から離れて自分勝手に生きようとしているため、人類に色々な問題が起こったことが分かります。しかし人の病気や人たちが受ける災害の場合はすべてが神様からの罰、祟り(たたり)であるとは言えません。先程の生まれつきの盲目についての弟子たちの質問に対して、イエス様がこう答えられました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」(ヨハネ9:3)そう仰って、イエス様はその人の目を開かれたのです。

     

    そのことで、中風の人に向かって、イエス様が「あなたの罪は赦された」と言われたのは、決してその人は具体的な罪のゆえに病気にかかってしまった訳ではありません。で、どうして病人にイエス様がそう言われたのでしょうか。その後のことで分かってきます。イエス様が言われた言葉を律法学者何人かが聞いて怒りました。罪を赦すのは神様だけですから、このイエスは神を冒涜しているのだ、と彼らが考えていたのです。

     

    旧約聖書の預言者は同じように罪の赦しの宣言をしました。例えば、ダビデ王がバテシェバと姦淫の罪を犯した時に、ナタンという預言者がはっきりとダビデがしたのは罪だ、と伝えました。しかしダビデが悔い改めて、「私は主の前に罪あるものです」と言ってから、ナタンは「主も、あなたの罪を取り去ってくださった。」と言いました。これはナタン自身がダビデの罪を赦したのではなく、神様がダビデの罪を赦されたのを彼が伝えただけです。

     

    マルコの2章の箇所のイエス様が言われたのは違います。イエス様ご自身が病人の罪を赦された、と私たちは理解すべきです。律法学者の批判に対して、イエス様が質問をされました。「中風の人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床を畳んで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」その後、罪を赦す権威を持っていることを示されるために、イエス様は病人を癒されました!

     

    癒されて帰ることができた人の人生の中に、確かに「神の国」が近づいたに違いありません。その奇跡を目撃した人々も神の国の到来を経験しました。この人たちは驚いて神をあがめた、と書いてあります。残念ながら、律法学者たちとユダヤ人の他のリーダーたちはこの日からイエス様を批判して、いつかは死刑にしたいと思うようになっていきました。

     

    5節に戻ってみたいと思います。小さなことですが、皆さんは気づいていますか。イエス様が病人に「子よ、あなたの罪は赦された。」と言われる前に、「イエスは彼らの信仰を見て」と書いてあります。「彼らの信仰」です!この病人のことを、自分の仲間のことを心配していて、イエス様によって彼は癒されるチャンスだとこの人たちは考えていたのですね。中風の人自身、本人には信仰があったのか、それは書いていません。仲間の信仰にイエス様が感心、感動された訳です。

     

    この仲間たちの信仰には、行動が伴っていました。友達をイエス様のところまで連れていきました。家の中に入ることができないと分かったら、彼らは諦めなかったのです。家の持ち主にずいぶん迷惑をかけることも構わず、屋根に穴を開けて友達をつり降ろしました。どうしても病人をイエス様のみ元に連れていきたかったのです。

     

    私たちも同じようなことを経験しているのではないでしょうか。私たちが信じることができるように、誰がイエス様のことを私たちに伝えてくれたでしょうか。そういう人たちがある意味で、私たちをイエス様のみ元に連れて行ってくれました。私たちが何かで困った時、苦しんでいた時、誰が私たちのために祈って私たちを助けてくれたでしょうか。その人たちも、私たちをイエス様のみ元に連れて行ってくれたのです。

     

    「伝道」というのはどういうことでしょうか。それは私たちが人々をイエスのみ元に連れて行くことです。教会の中の色々な「奉仕」も、最終的には目的が同じです。誰かをイエス様のみ元に連れて行くことです。自分にはできないことをイエス様にお委ねすることです。

     

    そして祈ることによって、人々をイエス様に連れて行くことができるのです。「取りなしの祈り」ですね。「どうか神様、この人の病気を癒してください。」「その人が困って、苦しんでいるところ、どうか、助けてください。」「あの人がイエス様を信じることができるように導いてください。」このようにして人々のために祈るのは大事なことですね。

     

    そして、もう一つの点で病人をイエス様のみ元に連れて行った仲間の姿を見ていただきたいです。はっきりこの箇所に書いていないことかもしれませんが、この人たちがしたのは病人を愛するのが動機でした。責任や義務に過ぎないことではなく、愛情表現でした。

     

    教会では、「あなたはクリスチャンなら、こうしなければ」、と言われるかもしれません。しかし私たちの行動はそういうところから始めるべきではないと思います。「神様を愛し、他の人々を愛するから」というところから私たちは周りにいる人々に仕えるべきです。

     

    教会の外にいる人々に対しても、教会の中にいる兄弟姉妹たちに対しても、神様がこのような愛を与えてくださり、私たちを用いてくださるように私は願っています。私たちが力を合わせて、周りにいる人々をイエス様のみ元に連れていきましょう。


    2020.08.11 Tuesday

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