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2020.06.03 Wednesday

6/7説教 「神のご栄光とみこころを求めて」

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    2020年6月7日

    主日礼拝

    説教 ギャリー•カルソン

    マタイ6:5−13

    「神のご栄光とみこころを求めて」

     

    45年前に、1975年の秋、私は初めて日本に来ました。その当時、新秋津キリスト教会が属している日本聖契キリスト教団の、小田原市にある酒匂キリスト教会に奉仕(主に英会話クラスを教えること)をさせていただきました。言語を学ぶのは大好きでしたから、日本語の勉強に力を入れて、楽しかったです。酒匂教会の若者たちと話し合っているある時、私が一所懸命日本語を覚えようとすることについてある人が気づいて、次のことを聞きました。「ギャリーさんは日本語の他にも言語を学んだことがあるか。」と。私はこう答えました。「中高生時代はフランス語、大学一年生の時はスウエーデン語を学んだ。」と。

     

    それを聞いて、その人は「スウエーデン語を聞いたことがない。スウエーデン語で何か言ってくれないか。」と言いました。スウエーデン語で、学んだ言葉をほとんど忘れてしまったので、何が言えるか、と戸惑ったのですが、「ああ、わかった、主の祈りの最初の方(天にまします我らの父よ。ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。)のスウエーデン語を覚えている。これがいい」と答えて次にこう言いました。

     

    「Fader vår, som är i himlen. Heliga var din nam.」

     

    これを聞いてくれた仲間の一人は大声で「あっ、中国語の様に聞こえる!」と叫びました。私は大変びっくりしました!中国語?何が似ているのかと私は思いました。音の流れだけとして、中国語とスウエーデン語は似ているかもしれません。でもその仲間にとっては両方の言語がわかりませんでしたから、そのどちらを聞いても、チンプンカンプンだったでしょう。

     

    今日と再来週の礼拝説教で、「主の祈り」を皆さんと共に考えていきたいと思います。この祈りは聖書の中で二つのところに出ています。一つはルカ11章2−4節にあって、弟子たちがイエス様に「祈りを教えてください」と頼んだ時でした。もう一つは今日の聖書の箇所のマタイ6:9−13です。マタイの箇所は「山上の説教」の中に出ています。この説教、あるいは教えで、イエス様は弟子たちに神の国の中に、神様に従うことでどう生きるべきか、ということについて話されました。

     

    イエス様が祈りの模範を紹介する前に、二つのことを注意されました。一つは祈る目的に関する注意です。5−6節では、人に褒めてもらうために祈ってはならない、と教えられました。人の前で祈ってはいけない、という様なことではないのですが、「祈りは上手ですね!」とか「そのように祈れるなら、信仰が素晴らしい!」というふうに言われるのが目的ではありません。神様の他に誰も聞いていないところでも十分です。そのところで生きておられる神様が私たちの祈りを聞いて、それに答えてくださることが大事だと覚えるべきです。

     

    もう一つ注意されたことは7−8節にあります。神様に聞いていただくには、言葉をたくさん重ねて、同じ言葉を長く繰り返す必要がない、ということです。その様な祈りはまさにチンプンカンプンの祈りになってしまいます。本当の神様を知らない人々はその様に祈りますが、私たちは同じ様に祈る必要がありません。私たちが祈る前に、天のお父様は既に私たちの必要なものを知っておられるのです。

     

    これで「主の祈り」となった言葉を見てみましょう。9節で「天にいます私たちの父よ。」というところから祈りが始まります。実は、元々のギリシャ語の原文には、「pater」、つまり「父」という単語からこの祈りが始まります。この小さな単語は本当に革命的なことを表しています。イエス様の時代まで、ユダヤ人は神様を父の様な存在として考えていたらしいですが、祈りの中で神様を「父」と呼ぶことは誰も考えてもみなかったのです。イエス様が初めてそうされました。ご自分の祈りの中で(例えばヨハネの福音書の17章を後で見てください)「父よ」と呼ばれました。そして弟子たちにこの祈りをもって神様を「父」と呼ぶ様に教えられました。

     

    皆さんはそれを聞いてどう思いますか。キリスト者として、信仰生活が長い方なら、このことにはもうとっくに慣れているでしょう。しかし、ある方は初めて聞いて、抵抗を感じることがあるかもしれません。なぜかというと、自分を育ててくれた人が理想的な父親ではなかったからです。ここで「放蕩息子」の例え話を思い出していただきたいです。そのストーリーに登場する父親はどれだけ自分の息子たちを愛していたか、この姿によって私たちは自分を愛してくださる天のお父様を正しく理解することができるのではないでしょうか。

     

    次にこの「主の祈り」に目立つ単語はまた単純な単語です。「私たちの」です。祈っているときに、一人で祈っていても、「私たちの」天のお父様に祈っています。この神様の愛によって、私たちは他のキリスト者と結ばれています。

     

    次に「御名が聖なるものとされますように」とあります。私たち人間は神様の似姿で想像されていることは創世記の1章に書いてありますが、私たちは神様と全く同じ存在ではありません。創造主と被造物との違いがあります。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道はわたしの道と異なるからだ。〜主の言葉〜 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:8−9)

     

    創造主の立場と創造された私たち人間の立場が違う、ということだけではありません。神様は正しい、聖い(きよい)方で、私たち人間は罪人です。私たち人間は正しいことをすべての時完全にできない存在です。このことで私たちは祈りの中で神様のお名前を聖なるものとしなければなりません。

     

    9節の「呼びかけ」のあとは、初めて神様に何かを求める祈りに変わっていきます。何を求めるでしょうか。初詣の時、あるいは人が神社やお寺に行った時などの祈りは普通自分のためです。「どうか、今年も健康であるように」、とか「子供が入学試験で合格できるように」、とか「職場で昇進できるように」など、このような祈りでしょう。

     

    自分のために祈るところは確かに「主の祈り」に出てきますが、最初のお願い、初めて何かを求めることは違います。10節にあります。「御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」と祈るように教えられています。自分のために祈るより先に、神様のために祈るわけです。神様のために祈る?私たち人間にはそういう祈りができるでしょうか。

     

    確かにこの言い方が多少おかしいかもしれません。神様が完全な方ですから、欠けていることは何もありません。私たちの祈りによって神様が何かを得ることになるはずがないのです。もっと適している言い方では、私たちと私たちの世界の人々が神様の願っておられることに合わせて歩むことができるように、と祈るのです。

     

    罪の力、その影響によって私たちは自分勝手に、自己中心的に生きることを選ぶのが当然です。祈りの中でも、そのわがままなところがつい出てしまうかもしれません。ですから神様のみこころをまず求めなければならないのです。イエス様も、十字架につけられる前の夜に、同じように祈りました。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」(マタイ26:39)

     

    神様の望まれることと私たちのやりたいことが異なっている時、心の中の葛藤を経験するかもしれません。神様に従いたいけど、従いたくない、従えない、そういう問題です。他の時、神様のみこころは何であるかはそんなにはっきりわからないこともあります。いずれも、神様の望まれるように歩むことができるように祈るのが大切です。

     

    どうして私たちが自分の願いを捨てて、神様のみこころを求めることができるでしょうか。これだけが長い説教となります。ここで一つ、簡単な答えを出してみます。神様は私たちの必要を全て分かってくださり、豊かに与えてくださる方であることを私たちは信じていますので、神様に信頼することができるのです。詩篇の中で最も愛されている23篇は次のように始まります。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」その他に、詩篇37:4を覚えています。「主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」

     

    そしてイエス様が仰ったこともあります。「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」(ヨハネ10:10)こういうことを覚えて神様のみこころを優先することができるのです。

     

    今日は「主の祈り」の学びをここまでにします。その祈りの後半は私の次回の説教で皆さんと共に見ていきます。

     

    これからも、新秋津キリスト教会の皆さんと共に神様のご栄光とみこころを求めていきたいと思います。このことによって神様が私たちを豊かに祝福してくださることを信じて、期待していこうではありませんか。

     


    2020.07.12 Sunday

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