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2020.05.28 Thursday

5/31 説教「父に愛された長男」

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    2020年5月31日

    主日礼拝

    説教 ギャリー•カルソン

    ルカ15:25−32

    「父に愛された長男」

     

    イエス様が話された、一番愛されている例え話は多分「放蕩息子」だと思います。前回のメッセージで、このタイトルではなく、「息子たちを愛する父」の方が適しているのではないか、と私が提案しました。しかしある意味では、次のタイトルがいいかもしれません。「怒っている長男」です。なぜかというと、イエス様が誰のために、何の目的で話されたかを考えているときに、放蕩息子のお兄さんが目立つのです。

     

    ルカ15章1―2はこう書いてあります。「さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、『この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている』と文句を言った。」このパリサイ人たちと律法学者たちは、イエスのみ元に集まっている「罪人たち」を歓迎することができませんでした。この人たちは例え話の長男に似ています。

     

    前回の説教で、私たちが父親と次男との間にあったことを取り上げました。今日は父親と長男の間に起こったことを一緒に考えていきます。15章25節から32節のところは例え話のエピローグとか後書きではなく、そのクライマックスです!

     

    次男が放蕩生活から目が覚めて、「我に返って」そのお父さんのところに帰ったら、愛される息子として歓迎されました。彼が無事帰ってきてくれたので、お父さんの溢れる喜びでお祝いのパーティーが始まったのですが、長男はその時どこでしたか。毎日の様に、忠実に父親の畑で仕事をしていました。一日の労苦が終わったところ、家に近づくと、お祝いの音が聞こえてきました。これは何のことだろう。長男は僕に聞いたら、「あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。」ということを聞きました。

     

    「えっ!信じられない」という怒りが長男の心の中で湧いてきました。「ずるい!よくない!」弟に対しても、父親に対しても腹が立ったのです。その怒りで、家の中に入ろうとしませんでした。そのことがお父さんの耳に入ったので、彼は外に出て、長男のところに行きました。これで私はそのお父さんの愛を感じます。皆さんは前回のメッセージで覚えていますか。20節〜「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家まで遠かったのに、父親は彼を見つけて、、、」次男でも、長男でも、自分から離れている息子を父親が出かけて探しました!

     

    そして父親は長男を厳しく叱ったのではなく、次男の時と同じ様に、優しく迎えました。まず長男の言いたいことを最後まで聞いてくれました。「ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友達と楽しむ様にと、子やぎ一匹下さったこともありません。それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰ってくると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。」(29、30節)

     

    この文句に対して、お父さんはどう答えたでしょうか。次男を喜んで迎えた理由をもって長男を説得しようとしました。「おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」(32節)しかしそれだけではなく、その前に長男に対する愛、変わることのない愛を示しました。「子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。」(31節)おまえをいつも愛しているよ!私の財産はすべておまえのものだよ!

     

    ここで私はひとつのことを考えさせられました。父親の財産は何でしょうか。畑、お金、そういう物質的なものだけですか。それよりも、父親の財産、その長男に分かち合いたい財産は彼の愛、そしてその喜びです。長男はこの時そういう大事な財産を見失ってしまったと思います。自分の弟に対する父親の歓迎を見て妬みを持つのではなく、父親と肩を並べて、喜びをもって一緒に迎えることができました。怒りと妬みか、愛と喜びか、どちらを選ぶかという選択肢が長男にあったわけです。

     

    私にとってこの例え話の一番面白いところは「最後」と言えるところが全くないところです。お父さんのことを聞いて、長男はどうしたでしょうか。私だけではなく、皆さんも知りたいでしょう!イエス様が、あるいはこの例え話を記したルカは「最後」をつけるのを忘れたのでしょうか。ストーリーだけとして考えているなら、確かに完成されていないでしょう。ただ、イエス様が話された例え話として、「最後」をつけない理由がありました。

     

    もう一度この例え話は誰のために、どういう目的でイエス様が話されたかを考えてみましょう。「罪人たち」を歓迎してくれない、イエス様がその人たちを歓迎されるのを見て腹が立ったパリサイ人たちと律法学者たちのために話されました。もしこの例え話の「最後」の部分がなければ、それはイエス様が自分の心を頑なにしてしまった人たちに、「あなたはどうする?」と思い直して「罪人たち」を歓迎するチャンスを与えられたのです。怒りと妬みを選ぶか、それとも愛と喜びを選ぶか、選択肢はパリサイ人たちと律法学者たちにありました。どうか、この「罪人たち」が我に返って神の愛に帰ろうとすることで、私と一緒に喜んでくれないか、とイエス様がお招きしておられたと思います。こういうわけで、長男は父親のお話を聞いてからどうしたかは書かれていないわけです。

     

    それで、ルカ15章の「最後」もないことに、皆さんは気づいたでしょうか。イエス様の例え話を聞いてから、パリサイ人たちと律法学者たちがどうしたでしょうか。ルカはその後のことを書きませんでした。その「最後」をつけるのをルカは忘れてしまったのでしょうか。ルカはわざとつけなかった、と私は思います。それはこの福音書を読む人、昔の人も今の時代の私たちも、どうするか、と考えるチャンスを与えるためです。

     

    「あら!私はパリサイ人たちと律法学者たちと違う!いわゆる「罪人たち」を私は否定することではなく、イエス様と共に歓迎したいです。」と私たちは考えたいでしょう。

     

    私の高校生時代の経験をここで思い出します。母教会に新しい主任牧師が来ました。このジョンソン牧師は伝道に熱心な先生でした。彼はあることを提案して、教会員を驚かせました。その町のドライブイン映画館を借りて、そこで礼拝を行うことでした。皆さんはこのこと分かりますか。「映画館」というのは建物のことですが、ドライブインの場合は車の中で映画を見る形になります。私の子供のとき両親と妹とよく行きましたが、日本はどうでしょうか。これは大きな駐車場で、車を止めるところはスピーカーが置いてあって、そのスピーカーを車の窓ガラスにかけると映画のオーディオを聴くことができました。すべての車はでっかいスクリーンに向かって止まるわけですから、そのスクリーンで映画を見ました。

     

    私の高校二年生の夏、母教会は牧師の勧めで、実際にドライブイン映画館で礼拝を始めてみました。朝9:00の礼拝でしたから、教会の礼拝堂の10:30の礼拝はその後で行われたのです。ドライブインの食べ物、飲み物を販売する建物の屋上で講壇を建て、そこから礼拝の司会、奏楽、そして説教がありました。びっくりしたことに、最初の日曜日からたくさんの人が車で礼拝のために来てくれました!数年間にわたって、このドライブイン礼拝を通して新しい人がたくさん母教会に導かれました。その中ですでにイエス様を信じる人たちだけではなく、その礼拝を通してイエス様を初めて信じて洗礼を受ける人も少なくありませんでした。

     

    ただ、問題が始まりました。新しい方々が教会に来るのは嬉しいことでしたが、その中で教会員と何かが違う人もいました。経済的に違う、人種が違うなど、その様な人が来たのです。ある教会員から、「ああいう汚い人に来て欲しくない」という批判の声が聞こえる様になりました。自分に合わない、自分と違う、自分にとって苦手な人は嫌だ、ということで、イエスに愛された人々を歓迎することができなかったのです。

     

    20年以上も前に日本で似ている様なことを私は経験しました。川崎市のある教会の木曜日の朝の婦人会で家内も私も手伝っていました。友達関係で別の教会の女性の方も来ました。ある日、この姉妹が私に言いました。「先生、うちの教会の牧師の許可でホームレスの人たちが教会の礼拝堂で毎晩寝てしまうことになりました。汚い人たちで、嫌な匂いが礼拝堂に残ってしまいます。そして時によってホームレスの人たちが日曜礼拝の為に残るなら、その様な人の隣に私が座らなければならないこともあります。困りました!」数か月にわたって、この姉妹のそういう文句を聞かされました。しかしある日、姉妹の話は一変しました。「先生、この間の日曜日の礼拝の時、イエス様を信じたホームレスの人は洗礼を受けました!自分の批判を悔い改めました。」ホームレスの人たちの変な匂いはまだなかなか我慢できないと姉妹は言っていましたが、喜びをもってこの人たちを歓迎することができる様になったのです。

     

    キリスト者の人生に、そして教会に、神様がいろいろな人たちを送ってくださいます。もうすでにイエス様を信じる人と未信者。自分に合う人と自分に合わない人も。このすべての人は神様に愛されている一人ひとりです!私たちに選択肢があります。怒りとか許さない気持ちでその人たちを退けるか、あるいは愛と喜びをもって歓迎するか、です。パリサイ人たちと律法学者たちへ、そして私たちへ、イエス様の例え話のメッセージは、「私と一緒に喜び祝おうではないか」となると思います。

     

    イエス様の例え話にも、そしてルカ15章にも「最後」が記されていません。それは昔の人たち、そして今の時代の私たちはどう反応するか、ということは残っています。父なる神様の喜びと愛を共にするお招きがあります。一人ひとりとして、教会全体として、神様の愛と喜びを選んで、神様の愛される人々を歓迎しましょう。


    2020.07.12 Sunday

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