CALENDER

S M T W T F S
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
27282930   
<< September 2020 >>

CATEGORIES

archives

WELCOME

新秋津キリスト教会のブログへようこそ。 初めての方はまずカテゴリー内の「最初にお読み下さい」をご覧下さい。
2020.05.13 Wednesday

5/17 説教「父に愛された次男」

0

    2020年5月17日

    主日礼拝

    説教 ギャリー•カルソン

    ルカ15:11−24

    「父に愛された次男」

     

    私たち夫婦には息子が二人います。アダムとアンドル(日本語の聖書ではアンドレとあります)。ポリーンの父親は双子の一人で、他に双子は親戚のなかに2組いるわけですから、もしかしたら私たちにも双子が生まれるのではないかと思ったのです。それで最初の妊娠の時、男の子の名前は二つ、女の子の名前も二つ決めたわけです。産まれてきたのが一人の男の子だけで、名前を「アダム」とつけました。五年後もう一人男の子が生まれたときに、前に双子のために考えていた二人目の名前「アンドル」をつけました。二人とも名前は「ア」から始まって、一人は旧約聖書の名前でもう一人は新約聖書の名前です。

     

    アダムとアンドルが私たちの家庭に与えられたことは感謝です。二人は性格が全然違います。一人には、特に中学高校生時代、反抗的な部分があって気が強いのですが、もう一人にはそういうところが全くなくて、穏やかな子でした。二人とももう30歳代になって、自分の家族や仕事を持って、歩んでいる道が違ってきました。私たち夫婦はあんなに違う二人を同じくらい愛します。

     

    イエス様が例え話をたくさん使って神の国を述べられました。その中で、「放蕩息子」と呼ばれるのは一番愛された例え話だと言われています。しかしそのタイトルは適していない、と多くの学者が指摘します。このストリーの中心的なのは息子ではなく、父親です。新しいタイトルをつけるなら、「息子たちを愛する父」にしたらいいな、と私は思うのです。

     

    イエス様が伝えられた例え話の中で、これは一番長いです。ストリーとして、二つの部分に分けることができる形になっています。最初の方は今日の箇所、ルカ15:11−24で、父親とその次男のことです。これは今日の説教の箇所です。2つ目の部分は25:32で、父親とその長男がテーマです。この二つ目の部分からは今月31日の説教とします。

     

    「父に愛された次男」というところを一緒に学ぶ前に、どういうときにイエス様がこの例え話を用いられたかを説明します。ルカの15書の最初のところを見てみます。「さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、『この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている』と文句を言った。」(ルカ15 :1−2)イエスの働きによって、一般社会から嫌われている人たちが多く集まりました。税金を同邦の者から取って、ローマ帝国に渡してしまう(そして場合によって税金として必要以上のお金をとって、その差額を自分の財布に入れてしまう)取税人、生活するために自分の体を売る娼婦など、そういう人たちでした。この人たちはイエスの愛のメッセージと姿に惹かれて、歓迎されたのですが、このことはパリサイ派の人たち、律法学者たちの怒りを買うことになりした。これでイエスは批判の的になってしまいました。

     

    しかしイエス様は、この「罪人たち」のために、ご自分がこの世に遣わされたことを示すために、三つの例え話を話されました。「迷える羊」と「なくしたコイン」の二つは15章3節から10節までに記されています。その後は「放蕩息子」です。この三つの例え話の目的は、神様はいわゆる「罪人」を愛され、この人たちを救うためにイエス様が来られたこと、この人たちが悔い改めて神の愛に戻るのは批判すべきことではなく、神と一緒に喜ぶべきことだ、ということです。

     

    さて、11節から弟息子のことを見ていきましょう。この下の子は、その時代の人々が聴くなら大変怒るようなことで、お父さんに「財産のうち自分の取り分をください」と頼みました(12節)。その時代のユダヤ教とその習慣では、父親の財産の3分の一に当たる、と言われています。父親の老後の面倒を見る責任は主に長男にあったのですが、次男もある程度責任があったそうです。父親に仕えて親孝行をするのではなく、その財産の一部を持って自分勝手に生きようと考えていたわけです。

     

    父親はそのようなことを頼む息子を厳しく罰したとしても当然ですが、逆に息子の願い通りにしました。この12節の「財産を二人に分けてやった」というところの「財産」は言語の単語として「生活」とか「いのち」と日本語に翻訳できます。老後の生活のために蓄えた父親の「いのち」を取ってしまうのです!最低の息子だ、とイエスの例え話を聞いている人たちが思ったに違いありません。

     

    この子が、この財産を持って遠い国に行って、そこで色々な遊びで全てを「放蕩して、湯水のように使ってしまった。」(13節)そして予期せぬことで、激しい飢饉が起こりました。もう、お金がないから、仕事をしなければならなくなりましたが、見つかった仕事は、なんと豚に餌をやることでした。豚肉を食べてはならない、とモーセの律法で注意されたユダヤ人にとって、これは本当に最悪の仕事でした。

     

    彼はある日、「我に返った」、と17節にあります。「父のところにはパンが有り余っている雇い人が、なんと大勢いることか。」ということを思い出しました。それでこのどん底の中からお父さんのところに帰ることにしたのです。その上で言うべき言葉を考えました。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」(18−19節)これは上手いセリフでしょうか。この例え話としては、彼が本当に悔い改めた心から出たように聞こえると私は思います。

     

    この息子が帰路につき、そして自分の生まれ育った家からまだちょっと離れたところまで来ると、もうすでにお父さんが外に出て彼を見つけた、と20節にあります。「今日こそ、帰ってくれるか、帰ってくれるか」と首を長くして待っていたお父さん。そう言うことだけではなく、息子のところにお父さんは走っていきました。その当時、年寄りの方にとってはとても恥ずかしいことでしたが、「我が子が帰った!」との喜びを表しています。

     

    父親がこのような次男を喜んで迎えたのです。彼の首を抱き、口づけして(ウイルスの心配がなかったですね!)、迎えたのです。ここで次男が準備した言葉を父親に伝えようとしました。でも、罪の告白と息子の資格がないところまでしか言えませんでした。(21節)続けることができなかったのは、そのお父さんが僕たちに命令しました。「急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足には履物を履かせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのにみつかったのだから。」(22〜24 節)次男は僕として雇われたのではなく、もう一度息子として迎えられたのです!

     

    この例え話の中で、いくつかのことが変わっていくのを感じます。次男がそのお父さんと自分の生まれ育った家を捨てて、遠い国に行ってしまった。放蕩の状況から貧乏のドン底に陥ってしまった。そして彼は「我に返って」から、帰ろうとした。その中で、全く変わることのなかったのはただ一つだけでした。それはお父さんの愛でした。その愛を持って、自分を裏切った息子をいつまでも「息子」として見ていたのです。

     

    この例え話はある意味でイエス様が「アイデンティティー」のテーマを取り上げています。次男は、いつまでも父親に愛されている、大事にされている息子であるアイデンティティーを捨てようとしました。「我に返った」ときでも、この次男は依然として息子の立場に戻ることは期待できない、と覚悟して帰りました。でも自分の願っていることを遥かに超えて、お父さんが自分を愛する息子として歓迎してくださったのです。実は、そのアイデンティティーは変わっていなかったのです。なぜなら、そのアイデンティティーは父親の愛から与えられていたからです。

     

    最近、私はある本を読みました。私の神学生の時新約聖書のことを教えていた教授が書いた本です。タイトルは「Who God Says You Are」ですが、なかなか日本語に表せないタイトルです。その意味は、神様は私たちにアイデンティティーを与えてくださる、と言うことです。アイデンティティー、そして生きる意味、自分の価値も含まれていると思います。普通なら私たちは自分のアイデンティティーは親から、家族から、学校から、仕事から与えられる、と思うかもしれません。しかし聖書を読むと、私たちを創造してくださった方、神様が私たちに自分のアイデンティティーを与えてくださることがわかります。

     

    あなたはどうして自分として生きているでしょうか。あなたの人生にはどう言う意味とか価値があるでしょうか。このようなクエスチョンは数年前に高校生や大学生に出されたアンケートに出ました。正しい数字は覚えていないのですが、半分以上の答えは、「なんで私は自分として生まれてきたか、生きるのはどう言う意味があるか、自分の存在にはなんの価値があるか、さっぱり解らない。」と出ていました。本当に悲しいことですね。

     

    私たちに生きる意味、価値、アイデンティティーを与えてくださるのは、私たちを誰よりも愛してくださる天のお父様です!今まで自分の過去の失敗、間違いはどのようなことがあったとしても、父なる神様の愛は変わらないことをこの「放蕩息子」の例え話を通して知ることができます。イエス様はパリサイ派の人たち、律法学者たちに、取税人や娼婦の女は、神の愛された子というアイデンティティー

    を失っていないよ!と伝えられました。このみ言葉で神様が同じようなことをあなたにも声をかけておられることを感じませんか。

     

    人生の辛い経験の中で、私たちは原点に帰る必要があると思います。ただ、自分の「原点」はなんでしょうか。放蕩息子、いや父にいつも愛されている次男と同じように、私たちも愛の原点に帰る必要があるのではないでしょうか。生まれる前から、愛を持って神様は私たち一人ひとりを創造されました。愛を持って、私たちが生まれた時から私たち一人ひとりを見守ってくださいます。愛を持って私たちが「我に返る」時、愛の原点に帰る時を待っておられます。そのようになったら、神様は必ず私たちを、愛を持って歓迎してくださいます。

     

    私たち新秋津教会も同じです。神様に愛されている教会、と言う原点に帰ることが必要であることを感じます。教会のアイデンティティーは神様にあって、私たちがこれから一緒にそれを求めていこうではありませんか。


    2020.09.22 Tuesday

    スポンサーサイト

    0
      • -
      • -
      • -
      • -
      • -