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2020.05.06 Wednesday

5/10 説教「実生活の中で現れてくださる復活の主」

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    臼井先生の説教は、YouTubeで見ることができます。

     

    2020年5月10日礼拝説教「実生活の中で現れてくださる復活の主」

    https://youtu.be/OUYs7OVJ9xE

     

    とんぼのめがね

    あきつ松風通信

    第119号

    2020.5.10

    「実生活の中で現れてくださる復活の主」

    (ルカ24:13−35)

    臼井 勲

     

     

    「彼らが”一緒にお泊り下さい。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています”と言って強く勧めたので、イエスは彼らと共に泊まるため中に入られた。そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神を褒め称え、裂いて彼らに渡された。すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は話し合った。”道々お話し下さる間、私たちに聖書を説き明かして下さる間、私たちの心は内に燃えていたではないか”。」(ルカ24:29−32)

     

    “新型コロナ”との戦いはこれからも続きます。集まりができないため多くの方々の生活が困窮しています。演劇をする人、音楽をする人、教育関係、観光、飲食、宿泊、交通に携わる方、職人、サラリーマンあらゆる職種の仕事や働きの場が奪われ、収入が少なくなり、生活が圧迫されています。そして教会もピンチに立たされています。新しい通信機器の発達で各自の礼拝がそれらの効能によって命脈を保たれています。

     

    さて僕の礼拝説教もコロサイ人への手紙が終わり、次は「使徒の働き」を学びたく思っています。今朝はそこに移る手前の大事なイエスさまの”昇天までの復活のからだ”で現れた働き、その一つである「エマオへの旅人の物語」を学び、そこから大切なメッセージを得たく思っています。

     

    二人の弟子が、主イエスが復活された日の午後、エルサレムから11キロにあるエマオという村へ向かう姿が描かれています。二人のうち一人はクレオパという名だと告げられていますが、もう一人の名は明かにされておりません。昔からそれは誰かという議論がされてきました。

     

    僕は名を告げなかったのは著者であるルカの霊的な洞察力のなせる業で、敢えて名を挙げないで無名にすることにより、後世の誰もがその旅に参加できる余地を与える為だったと思うに到りました。二人の中の一人は僕だ、あなただと思うとき、この記事は身に迫って活々としてくるのではないでしょうか。

     

    さて、二人の弟子は11キロ先のエマオ村に向かっています。最近僕は自宅から12キロ先の江の島まで歩きました。ちょうどエマオと同じ距離です。ゆっくり歩いて4時間かかりました。彼らの足取りも重かったでしょうから、そのくらいかかったのではないでしょうか。

     

    彼らは失望し落胆し、下を向きながらボソボソと話し合っていました。それは彼らの師であり、故国イスラエルを救済するメシアと信じていた方のむごたらしい十字架のお姿と、葬られて3日目の今朝その主の遺骸がなくなって、墓は空っぽであるという報(

     

     

     

     

     

     

     

     

    しらせ)。それだけでも胆をつぶす出来事なのに、数人の女弟子による「主は生きている」という証言。これが彼らの思考と感情を混乱させ、その動転している気持ちをぶつけ合っている最中だったわけである。そこへ見知らぬ旅人が加わったのです。「彼らの目はさえぎられていて、イエスであることが分らなかった」とあります。

     

    私たちはひとつの想念に取りつかれていると、目に見える単純な事実が見えないことがあります。あるデパートの店員さんが、彼は英語が大の苦手でいつも「外人のお客さんが来たらどうしよう」と恐れていました。その心配していた矢先に外人客が目の前に現れたのです。彼は動転して、「無理!ムリ!!」と心の中で叫んでいました。その客が品物を指さして何か言っています。彼は夢中で知っている限りの英語を並べ「アイドントノーイングリッシュ」と言った。客はキョトンとして「今私は”これを見せてください”と日本語で言ったのですが・・」と言った。この話は、この店員があまりにも自分の想念に捉われ、「耳がさえぎられていた」ことを示しています。もしそこに無心の子供がいたらどうでしょう「ハイどうぞ」と言ってその品物を示したことでしょう。なまじ大人の方が特定の想念に捉われ、思考にさえぎられていたことを示しています。

     

    キリスト教信仰の出発は、イエスの復活という驚くべき単純な事実に基づいています。主イエスの敵も味方も等しくこの事実を信じられなかったことでした。むしろ主を十字架にかけた敵側の祭司や律法学者、ローマの為政者の方が主イエスの生前の預言を覚え、恐れて墓を封印し警備を厳重にしました。弟子たちの方は、彼らが疑ったイエスの遺体を盗むどころか呆然自失の態で、数人の婦人たちを除いてみな逃げてしまい思考停止の状態だった。今や世界中がその状態に陥っているのではと恐れる。その弟子たちのパニック的精神状態を少しずつほぐしていかれたのが、復活の主が彼らと同行されながら聖書からご自身の福音の物語をじっくり説き明かして下さったことだった。二人はなんとゴージャスな旅をしたのだろう。今の私たちも雪で閉ざされた長い夜、否、コロナで閉ざされた自室で、じっくりと主の物語りを、福音書を読み通してみるのはどうであろうか。氷のように凍った彼らの心は春の陽光で次第に溶けていった。後に彼らは言った「道々お話し下さる間、私たちの心は内に燃えていたではないか」と。

     

    この光景を描いた美しい絵がある。ホフマン筆の「エマオへの道」である。西に傾く半逆行の陽を受けた樹木の中を語らい行く三人の旅人の姿である。三本の十字架が立つ午後のエルサレムの丘を背に歩くこと4時間、陽は傾き日没は近い。彼らはエマオの宿に着くが、見知らぬ旅人は尚先に行く様子に二人の弟子はこの方と別れがたく、もっと話を聞きたい思いから、強いて泊まってもらうよう説得したと記されている。

    この情景を詩(

     

     

     

     

    うた)った旧讃美歌39番は僕の好きな歌だ。

    1)日くれて四方(

     

     

     

     

    よも)はくらく、わがたま(魂)はいとさびし

    よるべなき身のたよる、主よ、ともに宿(やど)りませ

    2)人生(

     

     

     

     

    いのち)のくれちかづき、世のいろかうつりゆく、

    とこしえにかわらざる、主よ、ともに宿(やど)りませ

    3)世の闇(やみ)おしせまりて、いざないの声しげし、時のまも去りまさで、

    主よ、ともに宿(

     

     

     

     

    やど)りませ

    4)死の棘(

     

     

     

     

    とげ)いずこにある、主のちかくましませば、

    われ勝ちてあまりあらん、主よ、ともに宿(やど)りませ

    「そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取り神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」

     

    この物語の白眉(はくび)の箇所である。復活のキリストを私たちはどうして信じているのだろう。なぜ信じるのか。ノンクリスチャンの方々は「死人が復活するなどありえない。なぜそんなこと信じられる?」といぶかる。キリスト者だと自ら言う人でも「復活」それはあくまでも ( たと ) えで、物語の世界であると言って ( はばか ) らない人もいる。このエマオへの旅人もずっと一緒にいて話していても、復活した主イエスが分らなかった。主だと認識できなかった。それは心の中にそれを「さえぎる」ものがあったからだ。己の神学、己の哲学、己の想念、己の信念、そういうものにさえぎられてイエスが分らなかった。しかし普段の宿に入り、食卓を囲んで、この見知らぬ旅人が、ごく自然に、ごく普通のユダヤの家庭の主人として子供たちに与えるように、パンを取り、裂いて彼らに配るその姿に、彼らはかつて自分が育った家の子供になって、その人を見たとき初めてイエスだと分かったのであった。

     

    「誰でも幼子のように神の国を受け入れるものでなければ神の国入ることはできない」とかつて言われていた主イエスのことを思い出す。この光景を最も味わい深く描いたレンブラントの「エマオのキリスト」の絵がルーブル美術館にある。1648年のレンブラント円熟期の作品。左右に座る二人の弟子の中央の食卓に主イエスがパンを裂く瞬間、目をやや上に向け神を賛美する姿、右脇の宿屋の召使いの少年がパンの皿を差し出している。右手のクレオパとおぼしき弟子がハットした面持ちで主を見つめている。左手の弟子は表情が分らないが手を口に向け驚く動作を見せている。やわらかな光がキリストから発せられあたりを包み込んでいる。

     

    正に古今の名画である。その瞬間”復活の主”の姿は見えなくなった。彼らの心に信仰が生じた時だ。復活の主は彼らの心にられた。彼らはきびすを返し、夜の道をエルサレムへと戻って行った。他の弟子たちも集まっており、二人は喜びに満ち溢れて主にあった体験を語った。復活の主は今も普段の生活の私たちの最中に現れてくださる。

     

    決して感情が高揚した集会の場ではなく、当たり前の生活の現場に”コロナ”を避けて家にいて食卓を囲むパンを裂き祈る所に復活の主は共におられる。

     


    2020.05.28 Thursday

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