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新秋津キリスト教会のブログへようこそ。 初めての方はまずカテゴリー内の「最初にお読み下さい」をご覧下さい。
2020.07.09 Thursday

7/12 牧師の書斎からNo.15

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    牧師書斎からNo.15

    2020年7月12日

     

    ちょうど3ヶ月前に、4月12日、新秋津キリスト教会はZoomによるオンライン礼拝を始めました。新型コロナウイルス感染の心配、緊急事態宣言がある中で、この時代の素晴らしい技術を利用して礼拝を捧げることが出入るようになりました。本当に感謝です。ただ、Zoomを利用することができない方々が一緒に礼拝できないのが大きなマイナスです。

     

    その代わりに、礼拝の説教の原稿と週報を皆さんに郵送させていただき、教会のホームページに載せます。ですから、Zoomに参加されない方々も礼拝を捧げる機会を提供しています。礼拝を捧げる形は多少異なっていますが、内容は同じです。

     

    いつまた教会の建物で礼拝を再開できるか、まだ分かりません。最近の新しい感染者の人数は増えてきて、東京の方は100人を超えています。その中で、皆さんの安全考えて、今月いっぱいはまだ建物で礼拝の再開ができないと判断しました。ただ、これは皆さんのご意見を分かち合う必要があると考えています。19日のオンライン礼拝の後で、午後1時より、Zoomによる相談会が行われる予定です。幾つかの課題を取り上げる予定ですが、その一つは建物での礼拝の再開です。その相談会に参加できないなら、その前にご意見を是非聞かせてください。

     

    同じ日、19日の礼拝の中で、久しぶりに聖餐式を行うことにしました。2月16日以来です。Zoomによる礼拝に参加する方々に前もってパンとグレープジュースを用意していただきます。私が司式で、み言葉、祈り、そして説明の言葉で、聖餐式を行います。場所として私たちは離れても、Zoomによる礼拝で一緒に聖餐式に預かることとなります。

     

    Zoomに参加できない皆さんにお願いがあります。自分一人だけでは聖餐式を行わないように、ということです。なぜなら、聖餐式は教会で行う礼典で、決して一人だけで行うべきではないからです。聖餐式に預かりたいと願っている方(洗礼を受けた方なら)、私に相談してください。都合を合わせて、日にちと場所を決めて、私があなたのために聖餐式を行います。これは牧師が入院している信徒、あるいは施設に入居している信徒のために聖餐式を行うと同じです。

     

    教会の頭であるイエス•キリストが新秋津キリスト教会に連なるお一人ひとりの上に豊かな祝福を与えてくださるよう、お祈りいたします。

     

    牧師 ギャリー•カールソン


    2020.07.01 Wednesday

    7/5牧師の書斎からNo.14

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      牧師書斎からNo.14

      2020年7月5日

       

      コロナウイルスの新しい感染者の人数が毎晩ニュースで報告されていますね。皆さんと教会の建物に集まることができない状況が長く続いてきました。この「牧師書斎から」というコラムを私が始めたのは、この状況の中で私たちの信仰がどう支えられるか、と考えたからです。

       

      ですからこのコラムで私は、祈り、聖書の学び、礼拝について今まで書いてきました。それぞれのことによって、私たちの信仰が保たれ、強められると信じている訳です。ただ、そういうことよりも大事なことがあります。それは神様の働きです。今回そのことについて皆さんと共に考えてみたいと思います。

       

      私たち人間は努力することができるのですが、限界があります。心の中の感情によって、外側の状況によって、私たちの信仰が動揺される時もあります。信仰者は誰でもそのようなことを経験します。神様をほめたたえる詩をたくさん書いたダビデ王もそうでした。落胆、挫折の時にこう書きました。「わがたましいよ、なぜおまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。」(詩篇42:11)

       

      心の中の今の状況、外側の今の状況で心配と恐れがあるので、他の時と同じように神様を賛美することができないかもしれませんが、ダビデは希望を捨てていません。神様を待ち望むことができる、いつかはまた心から神様をほめたたえることのできる時が必ず来る、その時までに神様が自分を守ってくださる、こう言うことはダビデの信じることでした。

       

      神様がイスラエルに約束されたことは私たちにも与えられています。「だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしはあなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。、、、わたしの目には、あなたは高価で、尊い。わたしはあなたを愛している。』」(イザヤ43:1−4)

       

      私たちはこのように神様に愛され、大事にされています!心の感情や外側の状況が変わっても、神様は変わりません。私たちが神様を信じて信仰生活を歩むことができるのは、私たちの力によることというより、この方が私たちをいつも覚えて助けてくださるからです。皆さんと一緒にこの信仰と希望を持ち続けていきたいです。


      2020.06.24 Wednesday

      6/28 牧師の書斎からNo.13

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        牧師書斎からNo.13

        2020年6月28日

         

        前回、教会の礼拝の中に行われる礼典の一つである聖餐式について書きました。今回はその続きです。聖餐式は二つの物質的なものを利用します。それはパンと葡萄酒(ぶどうしゅ)、あるいは葡萄液(グレープジュース)です。礼典は「見えないみ恵を目で見える形で現す」、と言われますが、聖餐式の場合はどういう風に神様のみ恵みが現されていますか。

         

        聖餐式に預かったことのある人なら、すでによく分かっているはずです。パンというのはイエス様の十字架に付けられた体を現して、葡萄酒/葡萄液はイエス様が流された血潮を現します。そしてそういう二つものを食べて飲むことによって、私たちは主イエス様とその十字架の贖いを覚えることができるのです。また、教会の礼拝の中で行われる訳ですから、他の信徒と一緒に預かることによって、私たちはイエス様によって一つの共同体に結ばれていることも覚えます。

         

        最初の聖餐式は食事でした。「最後の晩餐」のことはマタイ、マルコそしてルカの福音書の中に記されています。イエス様が十字架に付けられる前の夜、弟子たちとともにユダヤ人の過越の祭りの食事をしておられました。その食事の最後のところ、イエス様がパンと杯を使ってご自分の死を預言され、これからも弟子たちがイエス様を覚えるために同じように行うことを命令されました。初代教会も、集まるところでよく聖餐式を守っていたのですが、本当の食事の形となりました。

         

        使徒パウロはこれについて第一コリント人への手紙11:17−34で教えました。この中で、多くのキリスト者が悩む種となるところがあります。27節です。「したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。」これだけ考えたら、「私が本当にふさわしい仕方で聖餐式に預かっているのか。」、と心配するのは分かります。しかし、ここで27節の前と後のところを全部読む必要があります。

         

        コリントの教会の聖餐式は主イエス様が弟子たちに伝えられた形と目的から外れてしまいました。それは食事を勝手に食べているようになりました。ある人がたくさん食べて、酔ってしまうほどたくさん飲んでいたのですが、他の人が後で着いたら何もパンとぶどう酒は残っていないことになったそうです。イエスを覚える教会が一つであることなく、一人ひとりが自分勝手にやっていたのです。これが「相応しくない」ところでした。

         

        ですから、パウロの注意は、聖餐式に預かったら、イエス様の十字架の死によって自分の罪が赦されて、み恵みによって救われていることを中心にして確認しなさい、という意味です。そのことを私たちが正しく理解しているなら、聖餐式は心配する時ではなく、新たに神様に感謝して喜びに満たされる機会となるのです。


        2020.06.18 Thursday

        6/21 牧師の書斎からNo.12

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          牧師書斎からNo.12

          2020年6月21日

           

          最近私は礼拝、具体的に新秋津キリスト教会の礼拝について書きました。読んでくださったみなさんはどう思ったでしょうか。礼拝順序の一つひとつのところを見てきましたが、まだ一つだけ抜けていました。気づきましたか。それは聖餐式でした。教会の礼典の一つである聖餐式を今回考えてみたいと思います。

           

          まずは礼典のことです。イエス様が弟子たちを通して私たちに守るべき儀式が二つ与えられて、礼典と言います。一つは洗礼、もう一つは聖餐式です。この二つの礼典は、私たちが主イエス様の十字架の贖(あがな)いによって罪が赦され、私たちが救われていることを表すものです。洗礼の方は人の信仰生活の中で一回だけ経験しますが、聖餐式は定期的に教会で行われます。ある意味では、洗礼は初めて運転免許を取る、聖餐式は運転免許を後で更新する、というようなことです。

           

          ここで誤解しやすいことがあります。受洗者の希望で牧師によって洗礼を授かります。聖餐式も信者の希望で牧師によって預かります。ですから、この二つの礼典は人間の行いだ、と考えがちです。しかし、正しいことは、礼典は神様の働きである、と理解すべきです。イエス•キリストを救い主と信じて洗礼を求めるのは神様の導きによることです。聖餐式の場合は、私たちが主の食卓へ招かれて預かります。そういうことですから、礼典は人間の行いというよりも、神様のイニシアチブ、神様がみ恵みを表す働きです。

           

          この二つの礼典はもう一つの共通点があります。二つとも教会によって行われる儀式です。決して個人の行いではありません。例外は確かにあります。例えば、病気にかかって、教会に行くことができない人のための病床洗礼があります。また、病院や高齢者施設に入院、入居している信者のためにその場所で聖餐式を行うことがあります。でも本来なら教会の礼拝の中で礼典を行うべきです。そしてこの二つの礼典は、私たちがキリストにあって一つであることも表されます。

           

          多くの教会の場合は、説教の後で聖餐式を行います。それは神様からみ言葉をいただいてから、手で触ることのできるもの、口に入れて味わうことのできるものをも神様からいただくからです。それでみ言葉と聖餐式によって、自分はイエス様の十字架の恵によって救われたことは確かであることを経験するわけです。

           

          聖餐式についてまた書きたいことが他に沢山ありますが、次回にします。


          2020.06.13 Saturday

          6/14 牧師の書斎からNo.11

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            牧師書斎からNo.11

            2020年6月14日

             

            いよいよ礼拝の最後のところに来ました。繰り返して書きますが、今まで見てきた礼拝のそれぞれの部分は「心の準備」、「神様に捧げて」、「神様からみ言葉をいただく」、そして「み言葉に応えて」となります。最後の部分は「帰る前に」として私は考えます。少し変な言い方かもしれませんが、礼拝を捧げてから、私たち一人ひとりは自分の住まい、家族、平日の生活に帰るわけです。住まい、家族、日々の生活から離れて神様に捧げる礼拝の最初の部分として「心の準備」が必要になると同じように、礼拝の時から帰る前に心の準備が必要です。

             

            「頌栄」〜 礼拝が終わるところで、もう一度神様をほめたたえる賛美を捧げます。礼拝を通して私がどのようなことを経験したか、ということも考えますが、礼拝の全てにおいて自分ではなく、神様が主人公であることを覚えて賛美します。そして帰った後も、自分の日々の経験の中で、神様がほめたたえられるように願うわけです。教会音楽の有名な作曲家バッハは全ての作曲した楽譜の一番最後のところに、「SDG」と書いたそうです。これはラテン語の「Soli Deo Gloria」の省略で、日本語にすると「ただ神にのみ栄光」となります。これこそ、私たちの礼拝の目的でもあり、日々生きる目標でもあるのです。

             

            「祝祷」〜 普通は説教者、あるいは教会の牧師が行います。聖書のいくつかの箇所が祝祷として用いられていますが、元々は民数記6:24−26節にある祝福の宣言に遡ります。「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主があなたに向け、あなたに平安を与えられますように。」日本の教会では、「祝祷」と言いますので、牧師が会衆を代表して神様に祝福を求める祈りを捧げる印象を受けてしまいますが、民数記の6:22−27を詳しく読んでみると、この言葉は牧師が神様を代表して会衆に向かって神の祝福を宣言することだ、と分かります。つまり、礼拝をするために御前に集まった教会、その一人ひとりを神様が祝福してくださるわけです。

             

            「後奏」〜 この最後の音楽を聴いて、「あっ、礼拝が終わった」というようなことだけではありません。後奏を聴きながら、礼拝としてどのような恵み、励まし、あるいはチャレンジを神様から頂いたかをもう一度考えて、神様に感謝を捧げることが勧められます。

             

            このように「帰る前に」という心の準備をして、礼拝の時から喜びと感謝を持って自分の住まい、家族、日々の生活に戻ります。新しい力をいただいて、神様と共に新しい一週間の歩みができるようになりました。これが礼拝の最後の部分の特徴です。


            2020.06.03 Wednesday

            6/7 牧師の書斎からNo.10

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              牧師書斎からNo.10

              2020年6月7日

               

              礼拝、とは何でしょうか。色々な定義があります。一つは「神様と人々との間のコミュニケーション」です。この定義は足りない、と感じますが、大事なことが表されています。キリスト者の礼拝は単なる「儀式」ではないし、「義務」では説明できないことです。生きておられる創造主である神様と、神様の愛される人々の間で行われることです。コミュニケーションです。

               

              そういうことを覚えて、礼拝の次の部分は「み言葉に応えて」と言えるでしょう。前回ここで私は「神様からみ言葉をいただく」、という部分について書きました。み言葉をいただいてから、礼拝はそれで終わり、礼拝者は帰ることはありません。神様からいただいたみ言葉に反応することも礼拝の大事なことなのです。「み言葉に応えて」という部分には、次のところがあります。

               

              〜賛美 説教とその後の祈りに対して、心から、礼拝者は共に声を合わせて賛美を捧げます。普通は、この曲の歌詞のテーマは説教とその前に朗読された聖書の箇所と関係があります。聞いた説教、いただいたみ言葉を考えながら、神様に向かって賛美を捧げるべきです。

               

              〜信仰告白 ある教会の礼拝では、これは「主の祈り」のすぐ後に入りますが、新秋津キリスト教会の毎週の礼拝順序では、このところに出てきます。神様のみ言葉をいただいてから、教会の信仰を確認して、一緒に告白することは素晴らしい反応だと私は思います。キリスト教の歴史において、いくつかの「信仰告白」が使われてきました。一番よく使われているのは「使徒信条」です。神様を父、子、聖霊として表されるこの信条はイエス様が特別任命された12人の使徒に遡るかは不明です。歴史資料に初めて出ているのは4世紀後半です。ただ、信条の内容として考えたら、使徒と初代教会の信仰に合っていることがわかります。「み言葉に応えて」というところで、自分の信仰、教会の信仰を確認することは礼拝者の経験で必要なことだと思います。

               

              〜献金感謝の祈り キリスト者の献金は決して「会費」とか「参加費」ではありません。文字通り、これは神様に捧げるお金です。神様がいつも必要を与えてくださることを覚えて、神様を信頼していることを表すために、感謝を持って捧げるべきものです。そして礼拝で神様のみ言葉をいただいたわけですから、それに応えて感謝を持って献金を捧げる意味合いもあります。礼拝司会者は会衆を代表して、感謝の祈りを神様に捧げます。

               

              以上は「み言葉に応えて」、という礼拝の部分ですが、まだ礼拝の最後までもう一つの部分が残っています。来週それについて書きたいと思います。


              2020.05.28 Thursday

              5/31 牧師の書斎からNo.9

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                牧師書斎からNo.9

                2020年5月31日

                 

                プロテスタントの教会の礼拝で、聖書朗読と説教が中心的なところだと言われています。今回、私たちは新秋津キリスト教会の礼拝順序のそういったところを見てみます。この部分を「神様からみ言葉をいただく」と言ってもいいでしょう。

                 

                聖書朗読〜 パウロがテモテに次のことを書き送りました。「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」(第2テモテへの手紙3:16)聖書の箇所の朗読無しの礼拝は考えられません。み言葉をもって神様が礼拝者、そして教会全体に、大事なメッセージを与えてくださることを私たちは信じます。礼拝司会者が朗読するか、あるいは会衆と交読するか、どちらでもいいですが、聞く側で、これは私たちのための神様のみ言葉として聞くべきです。できれば、礼拝が始まる前にそのみ言葉を読んでおいて、「どうか神様、このみ言葉を受け入れる様に私の心を開いてください」という様に祈るのが進められます。

                 

                説教〜 ある教会の礼拝ではこれを「宣教」、または「メッセージ」と言います。なぜかというと、「説教」という単語の漢字の意味として考えるなら、「説いて(説明する)教える」ことで、学問的な印象を受けてしまいます。礼拝の説教はそういうものではなく、神様からのコミュニケーションです。もちろん説教者は聖書の箇所を十分に説明ができる様に学んでそれを伝える必要があります。しかし何千年も前に書かれたことが今の時代を生きている私たちのために与えられている、これが説教の土台です。説教者も、説教を聞く一人ひとりも、このみ言葉を自分の信仰生活の中でどう意味をもって、どう適用するかを考える必要があります。

                ここで一つ大事なことを理解していただきたいです。み言葉は神様から与えられていますので100%信頼できるわけですが、説教は人間が準備して語るものですから、そのまま受け入れることではなく、み言葉に合っているか、み言葉を忠実に伝えているかは聞く側の責任です。ここで説教者を疑うべきだ、というふうに私は進めているわけではありません。説教者が時間をかけて、祈りをかけて説教の準備をするはずです。神様のみ前に、み言葉を正しく述べ伝える責任を負っています。そういう責任があるわけですから、説教を聞く人は説教者のために祈るべきです。

                 

                祈祷〜 説教が終わったら、説教者は祈ります。礼拝の中で会衆がいただいたみ言葉を考えて、神様に感謝しながらそのみ言葉に従って生きることができる様に神様の助けを求めます。

                 

                礼拝の他のところと同じ様に、「神様からみ言葉をいただく」というこの部分においても、神様が礼拝する会衆、一人ひとりと共にいてくださることを信じます。説教を通して聖霊が働いていることを期待します。これは本当に大きな恵みです!


                2020.05.21 Thursday

                5/24 牧師の書斎からNo.8

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                  牧師書斎からNo.8

                  2020年5月24日

                   

                  前回私は新秋津キリスト教会の礼拝の内容について書き始めました。前奏から罪の告白のところまで、「心の準備」の部分を見ましたが、今回はその次の部分、「神様に捧げて」と言えるところについて考えてみたいと思います。礼拝ができるための心の準備をしてから、心の中にあることを神様に捧げていきます。

                   

                  「はじめの祈り」〜 礼拝の司会者が祈りますが、自分の個人の祈りとしてではなく、礼拝のために集まった会衆を代表して祈ります。神様が礼拝を導いて祝福してくださるために祈ること、過ぎ去った一週間を通して守られたことを感謝すること、教会全体と教会に連なる一人ひとりの課題を取り上げて祈ること、教会の周りにある社会と世界のために祈ること、その他のことについて祈ること、こういうのはこの祈りの内容です。祈りを聞いている会衆は聞くだけではなく、司会者の祈りに合わせて一人ひとりが自分の祈りを神様に捧げるべきです。

                   

                  「主の祈り」〜 私たちはどう祈っていいかよく分からない、という思いがときによってあると思います。あるいは自分勝手な、自己中心的な祈りになりがちです。ですからイエス様が弟子たちに教えられた祈りを会衆が声を出して祈ります。この祈りを捧げることによって神様の御心に合わせて祈っていることを確認することができるのです。そして他の礼拝者と共に声を出して祈ることによって、神様に従うのは自分一人だけではないことを意識して励ましを受けることになります。

                   

                  「賛美」〜 一般の音楽、歌と違って、礼拝の賛美は私たちが神様に捧げるコミュニケーションです。主の御名を褒め称える、感謝を表す、神様から与えられている恵と祝福を思い出す、こういうのは賛美の中心です。他の人が作詞しましたが、歌詞の意味を考えながら、自分の心にある想い、自分の信仰に合わせて神様に向かって歌うべきです。ここで大事なことの一つは、礼拝の賛美はパフォーマンスではありません。もちろん奏楽者も礼拝者も上手に賛美することを願っていますが、それは二次的なことです。大事なのは心から賛美を神様に捧げることです。私の大学生の時、ルームメートは音痴でした。毎週日曜日の朝の礼拝で、キャンパスの近くの教会に行きました。賛美の時、ルームメートの声を聞くことが辛かったのですが、彼が本当に心から喜んで賛美していることに気づきました。賛美は上手、下手という基準で考えるのではなく、神様に心を開いて捧げているか、これが大事なことです。

                   

                  礼拝の「神様に捧げて」という部分についてもう一つ伝えたいことがあります。神様が必ず私たちの祈りを聞いてくださること、私たちの賛美を喜んで受け入れてくださることを信じるのも大事です。これからも、皆さんと共に礼拝をその様に捧げましょう!


                  2020.05.13 Wednesday

                  5/17 牧師の書斎からNo.7

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                    牧師書斎からNo.7

                    2020年5月17日

                     

                     私たち人間は天地創造をされた神様によって造られたので、神様に礼拝を捧げることは当然です。そして礼拝を捧げているときに、神様ご自身が共にいてくださり、祝福を与えてくださる、と私たちは信じます。礼拝の細かいところでは、教団、そして地域教会によって異なっていますが、根本的なことにおいては同じです。

                     礼拝の内容については、「どうしてそのことをするか、何の意味があるか」と私たちは考えるかもしれません。それは特に初めて教会の礼拝に出席した時感じることでしょう。「牧師書斎から」では、私たち新秋津キリスト教会の礼拝内容を考えていきたいと思います。礼拝全体をいくつかの部分に分けて、何回かにわたって見ていきます。

                     

                     今回は「前奏」から「罪の告白」までの部分を見ますが、この部分は「心の準備」と言えるのではないかと思います。

                     「前奏」〜 このところはただ、「そろそろ礼拝が始まるから、座って、静かにしなさい」という意味ではありません。確かに私たちは座って静かになるのですが、前奏を聴きながら、神様のみ前に心を開くことが大切です。「どうか、私があなたに礼拝を捧げることができるように助けて、この礼拝の時を通して私に必要なことを語ってください」というような祈りを捧げ、待ちます。

                     「礼拝招詞」〜 短い聖書の箇所の朗読では、私たちが礼拝に招かれていること、あるいは礼拝の祝福を求めることを覚えていきます。

                     「讃詠」〜 神様の聖(きよ)いご臨在の中で礼拝を捧げることを覚えるために歌います。それは私たちが罪人で、神様からかけ離れた世界に住んでいますが、そういうところから聖なる方のみ前に出ることを表す賛美です。

                     「罪の告白」〜 ダビデ王が書いた詩篇51編、あるいは32編の交読で、神様に自分の罪、失敗、弱さ、足りなさを言い表すことにします。ただ、読まれる詩篇の言葉の中に神様が私たちを哀れんで、私たちの罪を赦してくださることにも注目すべきです。罪を神様から隠すことなく、はっきり認めて赦しをいただくことによって、私たちは大胆に神様のみ前に出て礼拝を捧げることができるのです。

                     

                     このような説明で分かっていただけることだと思いますが、この「心の準備」の部分で私たちは礼拝を目撃するのでもなく、ただ人間が行うミーティングに参加するのでもなく、他のキリスト者と共に活ける神様に会って大切な時を過ごす、これは私たちの礼拝の始まりなのです。


                    2020.05.06 Wednesday

                    5/10 牧師の書斎からNo.6

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                      牧師書斎からNo.6

                      2020年5月10日

                       

                       前回私は礼拝について少し書きました。今回は、どうしてキリスト者は礼拝するか、ということについて考えてみたいと思います。「主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」(黙示録4:11)この世界の全て、そして私たち一人ひとりを創造されただけで、神様は私たちの礼拝を受けるにふさわしい方です。「屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です。」(黙示録5:12)私たちを救うため十字架の上で死なれ、三日目に甦られた主イエス•キリストは私たちの礼拝を受けるにふさわしい方です。

                       45年前に、私が短期宣教師として日本に来て、初めて富士山を見ました。自転車に乗っていて、突然その山が目の前にあることに気づきました。その素晴らしさに驚いて、もう少しで自転車から落ちてしまうところでした。不思議な自然現象を見て、私たちは畏怖や崇敬の念を覚えます。そのような物をお造りになった方に礼拝を捧げるのは尚更のことです。

                       礼拝の時、神様のみ前に進んで、ご臨在を感じる中で、神様が偉大な方であることを覚えてみ名を賛美するのは自然な反応です!この方が私たちのためにしてくださったことを思い起こして、感謝を捧げるのも当たり前のことです!

                       十戒の中に、そして聖書の他の箇所の中に、「他の神々を拝んではならない」、と私たちは戒められています。人間の手によってできた偶像だけではなく、私たちは富、名声、権力、成功、達成を高く評価するかもしれません。しかしそういう物は礼拝の対象となるような物ではありません。唯一の神様のみが私たちの礼拝を受けるべき方です。

                       また、神様に礼拝を捧げることを通して私たちは良い方向へと変えられていきます。「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(第2コリント人への手紙3:18)礼拝を通して私たちを神のご栄光を見上げていく中で、主イエス•キリストと似ている姿に帰られていくのがどんなに素晴らしいことでしょう!

                       私たち新秋津キリスト教会がこれからますます主イエス様を礼拝して、神様の豊かな祝福を与えられる群となっていきましょう。


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