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新秋津キリスト教会のブログへようこそ。 初めての方はまずカテゴリー内の「最初にお読み下さい」をご覧下さい。
2020.07.01 Wednesday

7/5説教「時が満ち、神の国が近づいた」

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    2020年7月5日

    主日礼拝

    説教 ギャリー•カルソン

    マルコ1:14−20

    「時が満ち、神の国が近づいた」

     

    初めて日本に来た外国人は色々なことに気付きます。自分の国で見たこと、聞いたことのない、考えたことのない、そういうことが多いです。食べ物、服、音楽などです。そのもう一つは「時」です。皆さんはもしかしたら気付いていないかもしれませんが、国によって、文化によって、「時」を考える考え方が違います。例えば、時刻表を見たら、東京駅から新幹線は午後2:10出発することとします。時刻表にはそう書いてありますが、実際に出発するのは何時になりますか。地震の発生や事故がなければ、必ず予定の2:10ですね。少なくても日本人はそう考えているでしょう。しかし、ある国では同じように時刻が守られていない、時間関係の約束はそんなに守らなくてもいい、という考え方がわかります。

     

    わたしの属している宣教団体の仲間の一人はメキシコで伝道をしています。彼の話では、メキシコ人が友達や親戚を食事会のために自分の住まいに来てもらうことはよくある、という文化だそうです。。パーティーの知らせで「午後6時に来てください」とするなら、日本にいる私たちは6時くらいで着くのはいい、と受け取るでしょう。しかしメキシコ文化ではそれは間違いです。6時でお客さんが到着するなら、パーティーを開く人はびっくりして、困るそうです。なぜならまだ準備をしている時です。6時の招待では、7時、あるいは8時にお客さんが来るはずです。

     

    「時」の考え方は文化によることですが、一番適している時にことを行わなければならない、というのはどこでも常識でしょう。聖書にも書いてあります。「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。」(伝道者の書3:1)

     

    新約聖書が元々書かれたギリシャ語では、日本語の「時」を表す単語は実は二つあります。一つは「chronos/クロノス」と言います。この「時」というのは特に深い意味がありません。ただ1秒、1分、1時間が経過することを表す「時」に過ぎないのです。それに対して、もう一つの単語は「kairos/カイロス」と言います。この「時」というのは特別な時刻となります。何か大事なことを始める「時」、終わる「時」、あるいは何かを変える「時」今がその時だ!という意味です。

     

    イエス様が地上の3年間の働きを始められたら、最初のメッセージは「時が満ちた」と今日の箇所にありますね。このところの元々のギリシア語を調べたら、やはり“chronos” ではなく、”kairos“という単語が用いられています。「今だよ!今は大事なことが始まるよ!」それはどういう意味でしょうか。

     

    私の大学生の時、歴史を専攻にしました。一つの科目は「古代中東史」でした。エジプト、バビロン、ギリシャ、ローマ、そういう王国と帝国を学びました。アメリカのカベナント教団の大学であるノースパーク大学ですから、その科目を聖書と合わせて学ばせてもらいました。ホーキンソン教授が「古代中東史」を教えていたのですが、ちょっと変わった先生でした。期末試験に変な問題を出す、という評判がありました。例えば、アメリカの歴史の科目の期末試験には次の問題がありました。「1776年〜なぜ?」それだけでした!問題の意味は、どうしてアメリカが独立することができたのは1776年になったか、ということでした。

     

    同じように、「古代中東史」の期末試験にこのような問題が出ました。「ガラテヤ4章4節〜なぜ?」だけでした。その聖書の箇所を読ませていただきます。「しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法のもとにある者として遣わされました。」試験の問題の意味は、「イエス様がお生まれになったのはどういう意味で2,000年前の時が一番適している時になったか」でした。つまり、私たちが学んでいた古代中東文明の中で、イエス様がお生まれになって、十字架につけられよみがえられてから、福音が短い間にローマ帝国にわたって述べ伝えられる状況をもって問題に答えることが期待されたのです。その時代の歴史を学ぶことで、神様の“Kairos”、一番適している「時」がよく分かってきたのです。

     

    マルコ1章に戻ります。イエス様の宣言では、「時が満ちた」と15節にあります。どのような時だったでしょうか。ユダヤ人は長いことローマ帝国の弾圧と迫害のもとで生きていました。「キリスト」、「メシア」、つまり救い主が神様から遣わされることをイスラエル全国は期待していたのです。その方が来れば、我々を解放してくださる、という信仰が人々の心の中にありました。そういう思いで群衆はイエス様の次の言葉を聞きました。「神の国が近づいた。」ローマ帝国の軍隊を我々の国から追い出して神様がまた誰かをダビデの王座に座らせてくださるに違いない!という反応があったはずです。

     

    しかしイエス様の次の言葉を聞いた人々はショックを受けたと思います。「悔い改めて福音を信じなさい。」「悔い改めてか。私たちユダヤ人ではなく、ローマ人はそうすべきでしょう。」と、人々は自分の耳を疑っていたかもしれません。これはユダヤ人が救い主について期待していたと違うメッセージでした。

     

    しかしイエス様は政治的なリーダーとして、軍隊の将軍として神様から遣わされたわけではありません。イスラエルの独立を達成できたとしても、人の心は変わりません。外面的なところではなく、内面的なところに、より大事な問題があったのです。イスラエル人は昔から神様の選ばれた民ではありましたが、その歴史の様々な時代において神様とその道から外れてしまいました。

     

    聖書の「悔い改め」というのは特別な意味がありました。元々の単語には、「考え直す」と「方向を変える」という意味が含まれています。あなた方は神様について、他の人々について、そして自分について考えていることを直す必要がある、というのはイエス様のメッセージでした。あなた方は何に向かって、何を目指して生きているか、その人生方向を変えなければならない、というのもイエス様のメッセジにあった訳です。このような「悔い改め」がなければ、イエス様が伝えられた福音を理解して受け入れることが当時のユダヤ人にはできなかったはずです。

     

    「時が満ち、神の国が近づいた」と述べ始められたイエス様は次にどのようなことをされたでしょうか。最初の弟子たちを集められました。しかしこのところも、イエス様がされたのはその時代の人々が驚いたことでした。最初の弟子たちはイスラエルの都であるエルサレム出身で、学問のある、政治的な経験と影響力のある人たちではありませんでした。イスラエルの北の方にあるガリラヤ地域、つまり田舎出身で学問のない漁師でした。しかしこのような男性たちをもって、イエス様は神の国をもたらそうとされたのです。

     

    16節〜20節のところでシモン(後でイエス様によって「ペテロ」というニックネームが与えられた人)とその兄弟アンデレ、あとはヤコブとその兄弟ヨハネが登場します。漁師の仕事をしている現場で、イエス様が近づいて声をかけられました。「わたしについて来なさい。人間を取る漁師にしてあげよう。」この4人は大変びっくりしたはずです。このような自分が何のためにこのイエスに選ばれたか、と思っていたでしょう。

     

    4人とも、漁師の仕事を後にしてイエス様に従いました。これで自分のこと、自分の人生の意味について考え直しました。生きる方向性を変えました。この4人はまさに「悔い改めた」訳ですね。そしてここでもう一つのところに気付いていただきたいです。シモンとアンデレはイエス様の呼びかけに対して「すぐに網を捨てて、イエスに従った」とあります。ヤコブもヨハネもう同じように応えたらしいです。躊躇なく、すぐにイエス様に従ったのですね。

     

    今日の私たちにもイエス様は声をかけてくださるのではないか、と思います。個人的なこととしても、教会全体としても、「時が満ち、神の国が近づいた」、と私たちに呼びかけてくださるイエス様の声が聞こえるような気がします。私たち一人ひとりのために、新秋津キリスト教会のために、イエス様は何か新しいことを始めてくださることをわたしは信じています。私たちは昔のユダヤ人と同じように政治的な弾圧や迫害を経験していません。しかし私たちは辛いことを経験して来ましたね。

     

    この私たちの状況の中で、今は神様のご計画の中にある「時」があるのではないでしょうか。先ほど伝道者の書に言及しました。同じ3章の11節にはこう書いてあります。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」私たち一人ひとりの人生の中に神様は何か素晴らしいことをなさっているのではないでしょうか。私たちの教会の中に同じように美しいと言えるようなことをなさっているに違いありません。神様の働きには終わりがありません。いつも私たちの中に、私たちのために働いておられます。

     

    ここで大事なのは、私たちの反応です。いろいろなことを考え直して、方向を変えるという「悔い改め」をして、神様を信じて、その働きに合わせて従うように、イエス様は私たちに声をかけてくださるのです。これは大きなチャレンジですが、同時に「福音」、「良い知らせ」、「グッドニュース」です。神様はあなたを、わたしを、この教会を愛しておられ、選ばれたのです!これはすごいことではありませんか。このようなことを考えて、わたしの心は希望と喜びに溢れています。

     

    ただここで一つ皆さんに理解してほしいことがあります。わたしはこれ以上具体的なことはわかりません。わたしは預言者ではないし、この教会について皆さんよりも神様のご計画の細かいところは知りません。しかしこれから皆さんと一緒に神様が私たちのためにどういう道を備えてくださったかを考えることができます。一緒にその道を見つけて、その中に歩んでイエス様に従うことができます。

     

    私たちが今この日本で、この地域に生きていること、それは偶然ではないと思います。私たちが新秋津キリスト教会として集まるのも偶然ではないでしょう。すべては神様の定めてくださった「時」によることだと信じます。この「時」に、神様はどのような美しいことを示してくださるでしょうか。一緒に信じて、求めて、イエス様に従っていこうではありませんか。


    2020.06.24 Wednesday

    6/28説教「使徒の補充と選び」

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      臼井先生の説教はYouTubeで視聴することができますのでご覧ください。

      https://youtu.be/fEViFAU0umU

       

      またPDF版は、ホームページの左上に並んでいる「カテゴリー」の「床や談義・とんぼのめがね」からダウンロードできます。または、http://www.gratiainc.com/Shinakitsu/

      にアクセスしてください。

       


      2020.06.18 Thursday

      6/21説教「自分のために祈る時」

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        2020年6月21日

        主日礼拝

        説教 ギャリー•カルソン

        マタイ6:9−15

        「自分のために祈る時」

         

        私と家内は息子二人を育てました。アダムとアンディという名前です。二人は子供の時、よく食べました。女の子もよく食べると思いますが、うちの男の子二人はいつも、そしてたくさん食べていたように覚えています。満腹にならないのではないか、とよく思いました。特にティーンエイジャーの時期はそうでした。英語の表現はその当時の息子たちに合っています。二人の腹は「bottomless pit」でした。日本語にすると「底知れぬ穴」となるでしょう。

         

        家内が買い物と献立を考えることで悩むことがよくありましたが、私の場合は家族が外食するときに困りました。毎回ファミレスのテーブルで座って、メニュを見るとき、息子たちいつもこう私に聞きました。「お父さん、いくらまで注文していいですか。」、と。「お父さん、これ注文していいですか。」ではなくて、「いくらまで」でした。二人とも、自分の好きな食べ物をできるだけ沢山注文したかったわけです。二人が食べ過ぎになるのか、あるいはそれよりも私の財布にあるお金が足りなくなるのか、私は心配でした。

         

        しかしその中で、息子たちが私に必要なものを頼むのも、私と家内がそれに応えることも(もちろん適当な程度で)、それは私たちの喜びでした。

         

        前回の私の説教で、私たちは「主の祈り」を見ました。この祈りの前半では、自分のことではなく、神様のご栄光と御心を求めるようなところから始まることを学びました。今日は「主の祈り」の後半を見てみますが、これで確かに私たちは自分のために祈るのが許されていることを教えられています。

         

        もうすでに私たちは神様のご栄光と御心を求めるように祈りましたので、その後は自分勝手な祈り、欲張りな祈りを捧げることができないはずです。自分のために祈る正しい祈り方は11節にあると思います。「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」沢山のものを求めるのではなく、今日の必要なもの、1日分だけでいいから、どうか神様、今日も与えてください、という祈りです。この短い言葉で、神様を信頼していれば、必要なものは与えられる、という素晴らしい信仰が表されています。神様を信じて、神様に愛されていることを知っているから大丈夫だ、と覚える信仰です。

         

        同じマタイの6章の31−33節を読んで見たら、私たちには心配を選ぶか、信頼を選ぶかという選択肢がある、とイエス様が教えられました。「ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」

         

        「主の祈り」のこの部分では、「糧」のための祈りです。しかしこれを拡大して、1日に必要なものとして考えると、食べ物の他にも服、住まい、健康、知恵など、その日一日に必要なものを神様に求めることが許されている、と適用できるのではないでしょうか。

         

        次の12節に行きます。ここで多くのキリスト者が悩むような祈りの部分があります。「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」神様のみ前に素直になって自分の失敗と罪を認めることは容易なことではないかも知れませんが、「私をお赦しください」、と祈るのが一番難しいところではありません。私が他の人の自分に対する罪を赦しますよ、と神様のみ前に言うのは問題ですね。

         

        自分が受けた侮辱、傷は深い痛みとなることがあります。その状況のなかから、その害を自分に加えた人を赦すのは容易なことではありません。イエス様が教えられた祈りの意味は、他の人を赦してから初めて神様が私たちの罪を赦す、ということでしょうか。違います。これは神様に赦していただくための順番とか条件ではありません。私たちが神様の愛によって罪が赦されていることを知っているなら、心から他の人を赦すことができるのです。

         

        14−15節に飛びます。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。」先ほど言ったように、これは順番とか条件のことではありません。同じマタイの福音書野18章21−35で、罪の赦しを説明するにはイエス様が例え話を用いられました。

         

        王に対して、莫大な負債のある僕がいました。お金を返すことができないその僕は清算の時、王様に憐みを懇願しました。返すためにもう少し時間をください、という願いでしたが、驚いたことに王が全額を帳消しにしました。そのすぐ後、同じ僕は自分にちょっとだけの金額の借りがある仲間を見つけました。「借金を返せ!」と言いました。「時間をください」と嘆願した仲間に憐みを見せることなく、牢に放り込んだ、と書いてあります。そのことを聞いた王は最初の僕を同じように牢の獄吏たちに引き渡しました。例え話の結論で、「あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」

         

        イエス様の弟子たちに対しても、そしてこの時代の私たちに対しても、もしかしたらこれは一番厳しいみ言葉かも知れません。私も、ときによって人の罪を赦すことはなかなかできないことを経験してきました。皆さんなら、このことをどう考えていますか。あきらめないでください!できることです!神様が自分をどれだけ愛してくださるか、イエス様の十字架の苦しみと死によって自分の罪が赦されているということを覚えて、人を赦すことができるでしょう。自分の愛が足りなければ、神様に「愛を、赦す力をください!」と祈ることによって、聖霊がその必要を満たしてくださいます。

         

        このことについて、私が日本に来たとき、英語にない日本語の特徴に気づいて感心しました。漢字です。英語では「forgive」という単語がありますが、日本語の場合は漢字の区別があります。許可の許の「許す」と赦免の赦の「赦す」です。私は日本人でもないし、日本語が母国語ではないですから、十分その区別を理解していないでしょう。でも「許す」というのは形だけで「仕方がないから、いいです。」という風に聞こえて、その一方「赦す」というのはイエス様が教えられた「心から」というニュアンスがあるような気がします。愛がこの「赦す」の動機です。

         

        とにかく、私たちと神様との関係のこと、そして私たちと他の人との関係のこと、この二つの関係において私たちが正しいことをするように自分のために祈るのは私たちが理解している以上に大事なことであると私は思います。ですから「主の祈り」の中でこのように私たちは自分のために祈るように勧められているのです。

         

        「主の祈り」の中で、自分のために祈るもう一つのことがあります。神様に「どうか、私(または私たち)を守ってください!」という祈りです。マタイの6章に戻りますが、13節にはこのようになっています。「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。」

         

        前半の方、つまり「試み」というのは私たち一人ひとりが心の中に闘いがあるということです。誘惑の問題です。神様の御心を無視して、自分勝手に生きる誘惑です。肉体的な欲望に負けてしまう誘惑です。心の中の葛藤として出る憎しみ、嫉妬、恨みなどに陥ってしまう誘惑です。このような試みに会うことのないように、神様が私たちを守ってくださる助けを求める祈りをイエス様が教えられています。

         

        後半の方は自分の外にある危険、悪から守られるように祈ることです。病気、怪我、災害など、そういうようなこともありますが、この「悪」というのは特にサタンの策略から守られるように祈ることだ、と私は思います。ここでの言語の単語の翻訳は実は二つの可能性があります。14節のこの日本語の「悪からお救いください」も、他に「悪魔からお救いください」と、文法として両方の翻訳は可能です。普通の聖書の翻訳は(英語もそうですが)「悪魔」ではなく、「悪」となりますが、悪の裏にサタンの働きがあることを私たちは知っています。

         

        誤解しないでください。こういうことで私たちは余計にサタンを恐れる必要はありません。この点で、イエス様ご自身が私たちのために取りなしの祈りをしてくださいます。ヨハネの福音書17章15節で、イエス様の祈りはこうです。「わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪いものから守ってくださることです。」そしてヘブル人への手紙7章25節にはこう書いてあります。「したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」

         

        マタイの福音書にある「主の祈り」の学びはここで終わります。私たちの礼拝の中に一緒に祈る形として、最後に「国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。」という部分がついています。福音書を書いたマタイ(またはルカ)はその部分を付けなかった訳ですから、元々のイエス様の教えられた祈りにはなかったようです。福音書が書かれてから、後の時代にこの部分が付け加えられました。ただ、「主の祈り」に付け加えてもう一度神様に栄光を帰するのはふさわしいことです。

         

        これで説教の二回にわたって、私たちは「主の祈り」を学びました。ぜひ、皆さんの個人の祈りの時にこの素晴らしい祈りを模範にして祈っていただきたいです。

         

        神様がそのような祈りを聞いて、それに応えて、その祈りを捧げる私たちを祝福してくださる、と私は信じています。

         


        2020.06.13 Saturday

        6/14説教「キリストの証人となる備え」

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          6/14 礼拝説教「キリストの証人となる備え」

          臼井先生の説教の動画は以下で見ることができます。

          https://youtu.be/BXUNj38rDjM

           

          また左側のカテゴリー「床や談義、とんぼのめがね」にはPDFが掲載されていますので、ご覧ください。


          2020.06.03 Wednesday

          6/7説教 「神のご栄光とみこころを求めて」

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            2020年6月7日

            主日礼拝

            説教 ギャリー•カルソン

            マタイ6:5−13

            「神のご栄光とみこころを求めて」

             

            45年前に、1975年の秋、私は初めて日本に来ました。その当時、新秋津キリスト教会が属している日本聖契キリスト教団の、小田原市にある酒匂キリスト教会に奉仕(主に英会話クラスを教えること)をさせていただきました。言語を学ぶのは大好きでしたから、日本語の勉強に力を入れて、楽しかったです。酒匂教会の若者たちと話し合っているある時、私が一所懸命日本語を覚えようとすることについてある人が気づいて、次のことを聞きました。「ギャリーさんは日本語の他にも言語を学んだことがあるか。」と。私はこう答えました。「中高生時代はフランス語、大学一年生の時はスウエーデン語を学んだ。」と。

             

            それを聞いて、その人は「スウエーデン語を聞いたことがない。スウエーデン語で何か言ってくれないか。」と言いました。スウエーデン語で、学んだ言葉をほとんど忘れてしまったので、何が言えるか、と戸惑ったのですが、「ああ、わかった、主の祈りの最初の方(天にまします我らの父よ。ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。)のスウエーデン語を覚えている。これがいい」と答えて次にこう言いました。

             

            「Fader vår, som är i himlen. Heliga var din nam.」

             

            これを聞いてくれた仲間の一人は大声で「あっ、中国語の様に聞こえる!」と叫びました。私は大変びっくりしました!中国語?何が似ているのかと私は思いました。音の流れだけとして、中国語とスウエーデン語は似ているかもしれません。でもその仲間にとっては両方の言語がわかりませんでしたから、そのどちらを聞いても、チンプンカンプンだったでしょう。

             

            今日と再来週の礼拝説教で、「主の祈り」を皆さんと共に考えていきたいと思います。この祈りは聖書の中で二つのところに出ています。一つはルカ11章2−4節にあって、弟子たちがイエス様に「祈りを教えてください」と頼んだ時でした。もう一つは今日の聖書の箇所のマタイ6:9−13です。マタイの箇所は「山上の説教」の中に出ています。この説教、あるいは教えで、イエス様は弟子たちに神の国の中に、神様に従うことでどう生きるべきか、ということについて話されました。

             

            イエス様が祈りの模範を紹介する前に、二つのことを注意されました。一つは祈る目的に関する注意です。5−6節では、人に褒めてもらうために祈ってはならない、と教えられました。人の前で祈ってはいけない、という様なことではないのですが、「祈りは上手ですね!」とか「そのように祈れるなら、信仰が素晴らしい!」というふうに言われるのが目的ではありません。神様の他に誰も聞いていないところでも十分です。そのところで生きておられる神様が私たちの祈りを聞いて、それに答えてくださることが大事だと覚えるべきです。

             

            もう一つ注意されたことは7−8節にあります。神様に聞いていただくには、言葉をたくさん重ねて、同じ言葉を長く繰り返す必要がない、ということです。その様な祈りはまさにチンプンカンプンの祈りになってしまいます。本当の神様を知らない人々はその様に祈りますが、私たちは同じ様に祈る必要がありません。私たちが祈る前に、天のお父様は既に私たちの必要なものを知っておられるのです。

             

            これで「主の祈り」となった言葉を見てみましょう。9節で「天にいます私たちの父よ。」というところから祈りが始まります。実は、元々のギリシャ語の原文には、「pater」、つまり「父」という単語からこの祈りが始まります。この小さな単語は本当に革命的なことを表しています。イエス様の時代まで、ユダヤ人は神様を父の様な存在として考えていたらしいですが、祈りの中で神様を「父」と呼ぶことは誰も考えてもみなかったのです。イエス様が初めてそうされました。ご自分の祈りの中で(例えばヨハネの福音書の17章を後で見てください)「父よ」と呼ばれました。そして弟子たちにこの祈りをもって神様を「父」と呼ぶ様に教えられました。

             

            皆さんはそれを聞いてどう思いますか。キリスト者として、信仰生活が長い方なら、このことにはもうとっくに慣れているでしょう。しかし、ある方は初めて聞いて、抵抗を感じることがあるかもしれません。なぜかというと、自分を育ててくれた人が理想的な父親ではなかったからです。ここで「放蕩息子」の例え話を思い出していただきたいです。そのストーリーに登場する父親はどれだけ自分の息子たちを愛していたか、この姿によって私たちは自分を愛してくださる天のお父様を正しく理解することができるのではないでしょうか。

             

            次にこの「主の祈り」に目立つ単語はまた単純な単語です。「私たちの」です。祈っているときに、一人で祈っていても、「私たちの」天のお父様に祈っています。この神様の愛によって、私たちは他のキリスト者と結ばれています。

             

            次に「御名が聖なるものとされますように」とあります。私たち人間は神様の似姿で想像されていることは創世記の1章に書いてありますが、私たちは神様と全く同じ存在ではありません。創造主と被造物との違いがあります。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道はわたしの道と異なるからだ。〜主の言葉〜 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:8−9)

             

            創造主の立場と創造された私たち人間の立場が違う、ということだけではありません。神様は正しい、聖い(きよい)方で、私たち人間は罪人です。私たち人間は正しいことをすべての時完全にできない存在です。このことで私たちは祈りの中で神様のお名前を聖なるものとしなければなりません。

             

            9節の「呼びかけ」のあとは、初めて神様に何かを求める祈りに変わっていきます。何を求めるでしょうか。初詣の時、あるいは人が神社やお寺に行った時などの祈りは普通自分のためです。「どうか、今年も健康であるように」、とか「子供が入学試験で合格できるように」、とか「職場で昇進できるように」など、このような祈りでしょう。

             

            自分のために祈るところは確かに「主の祈り」に出てきますが、最初のお願い、初めて何かを求めることは違います。10節にあります。「御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」と祈るように教えられています。自分のために祈るより先に、神様のために祈るわけです。神様のために祈る?私たち人間にはそういう祈りができるでしょうか。

             

            確かにこの言い方が多少おかしいかもしれません。神様が完全な方ですから、欠けていることは何もありません。私たちの祈りによって神様が何かを得ることになるはずがないのです。もっと適している言い方では、私たちと私たちの世界の人々が神様の願っておられることに合わせて歩むことができるように、と祈るのです。

             

            罪の力、その影響によって私たちは自分勝手に、自己中心的に生きることを選ぶのが当然です。祈りの中でも、そのわがままなところがつい出てしまうかもしれません。ですから神様のみこころをまず求めなければならないのです。イエス様も、十字架につけられる前の夜に、同じように祈りました。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」(マタイ26:39)

             

            神様の望まれることと私たちのやりたいことが異なっている時、心の中の葛藤を経験するかもしれません。神様に従いたいけど、従いたくない、従えない、そういう問題です。他の時、神様のみこころは何であるかはそんなにはっきりわからないこともあります。いずれも、神様の望まれるように歩むことができるように祈るのが大切です。

             

            どうして私たちが自分の願いを捨てて、神様のみこころを求めることができるでしょうか。これだけが長い説教となります。ここで一つ、簡単な答えを出してみます。神様は私たちの必要を全て分かってくださり、豊かに与えてくださる方であることを私たちは信じていますので、神様に信頼することができるのです。詩篇の中で最も愛されている23篇は次のように始まります。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」その他に、詩篇37:4を覚えています。「主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」

             

            そしてイエス様が仰ったこともあります。「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」(ヨハネ10:10)こういうことを覚えて神様のみこころを優先することができるのです。

             

            今日は「主の祈り」の学びをここまでにします。その祈りの後半は私の次回の説教で皆さんと共に見ていきます。

             

            これからも、新秋津キリスト教会の皆さんと共に神様のご栄光とみこころを求めていきたいと思います。このことによって神様が私たちを豊かに祝福してくださることを信じて、期待していこうではありませんか。

             


            2020.05.28 Thursday

            5/31 説教「父に愛された長男」

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              2020年5月31日

              主日礼拝

              説教 ギャリー•カルソン

              ルカ15:25−32

              「父に愛された長男」

               

              イエス様が話された、一番愛されている例え話は多分「放蕩息子」だと思います。前回のメッセージで、このタイトルではなく、「息子たちを愛する父」の方が適しているのではないか、と私が提案しました。しかしある意味では、次のタイトルがいいかもしれません。「怒っている長男」です。なぜかというと、イエス様が誰のために、何の目的で話されたかを考えているときに、放蕩息子のお兄さんが目立つのです。

               

              ルカ15章1―2はこう書いてあります。「さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、『この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている』と文句を言った。」このパリサイ人たちと律法学者たちは、イエスのみ元に集まっている「罪人たち」を歓迎することができませんでした。この人たちは例え話の長男に似ています。

               

              前回の説教で、私たちが父親と次男との間にあったことを取り上げました。今日は父親と長男の間に起こったことを一緒に考えていきます。15章25節から32節のところは例え話のエピローグとか後書きではなく、そのクライマックスです!

               

              次男が放蕩生活から目が覚めて、「我に返って」そのお父さんのところに帰ったら、愛される息子として歓迎されました。彼が無事帰ってきてくれたので、お父さんの溢れる喜びでお祝いのパーティーが始まったのですが、長男はその時どこでしたか。毎日の様に、忠実に父親の畑で仕事をしていました。一日の労苦が終わったところ、家に近づくと、お祝いの音が聞こえてきました。これは何のことだろう。長男は僕に聞いたら、「あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。」ということを聞きました。

               

              「えっ!信じられない」という怒りが長男の心の中で湧いてきました。「ずるい!よくない!」弟に対しても、父親に対しても腹が立ったのです。その怒りで、家の中に入ろうとしませんでした。そのことがお父さんの耳に入ったので、彼は外に出て、長男のところに行きました。これで私はそのお父さんの愛を感じます。皆さんは前回のメッセージで覚えていますか。20節〜「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家まで遠かったのに、父親は彼を見つけて、、、」次男でも、長男でも、自分から離れている息子を父親が出かけて探しました!

               

              そして父親は長男を厳しく叱ったのではなく、次男の時と同じ様に、優しく迎えました。まず長男の言いたいことを最後まで聞いてくれました。「ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友達と楽しむ様にと、子やぎ一匹下さったこともありません。それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰ってくると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。」(29、30節)

               

              この文句に対して、お父さんはどう答えたでしょうか。次男を喜んで迎えた理由をもって長男を説得しようとしました。「おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」(32節)しかしそれだけではなく、その前に長男に対する愛、変わることのない愛を示しました。「子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。」(31節)おまえをいつも愛しているよ!私の財産はすべておまえのものだよ!

               

              ここで私はひとつのことを考えさせられました。父親の財産は何でしょうか。畑、お金、そういう物質的なものだけですか。それよりも、父親の財産、その長男に分かち合いたい財産は彼の愛、そしてその喜びです。長男はこの時そういう大事な財産を見失ってしまったと思います。自分の弟に対する父親の歓迎を見て妬みを持つのではなく、父親と肩を並べて、喜びをもって一緒に迎えることができました。怒りと妬みか、愛と喜びか、どちらを選ぶかという選択肢が長男にあったわけです。

               

              私にとってこの例え話の一番面白いところは「最後」と言えるところが全くないところです。お父さんのことを聞いて、長男はどうしたでしょうか。私だけではなく、皆さんも知りたいでしょう!イエス様が、あるいはこの例え話を記したルカは「最後」をつけるのを忘れたのでしょうか。ストーリーだけとして考えているなら、確かに完成されていないでしょう。ただ、イエス様が話された例え話として、「最後」をつけない理由がありました。

               

              もう一度この例え話は誰のために、どういう目的でイエス様が話されたかを考えてみましょう。「罪人たち」を歓迎してくれない、イエス様がその人たちを歓迎されるのを見て腹が立ったパリサイ人たちと律法学者たちのために話されました。もしこの例え話の「最後」の部分がなければ、それはイエス様が自分の心を頑なにしてしまった人たちに、「あなたはどうする?」と思い直して「罪人たち」を歓迎するチャンスを与えられたのです。怒りと妬みを選ぶか、それとも愛と喜びを選ぶか、選択肢はパリサイ人たちと律法学者たちにありました。どうか、この「罪人たち」が我に返って神の愛に帰ろうとすることで、私と一緒に喜んでくれないか、とイエス様がお招きしておられたと思います。こういうわけで、長男は父親のお話を聞いてからどうしたかは書かれていないわけです。

               

              それで、ルカ15章の「最後」もないことに、皆さんは気づいたでしょうか。イエス様の例え話を聞いてから、パリサイ人たちと律法学者たちがどうしたでしょうか。ルカはその後のことを書きませんでした。その「最後」をつけるのをルカは忘れてしまったのでしょうか。ルカはわざとつけなかった、と私は思います。それはこの福音書を読む人、昔の人も今の時代の私たちも、どうするか、と考えるチャンスを与えるためです。

               

              「あら!私はパリサイ人たちと律法学者たちと違う!いわゆる「罪人たち」を私は否定することではなく、イエス様と共に歓迎したいです。」と私たちは考えたいでしょう。

               

              私の高校生時代の経験をここで思い出します。母教会に新しい主任牧師が来ました。このジョンソン牧師は伝道に熱心な先生でした。彼はあることを提案して、教会員を驚かせました。その町のドライブイン映画館を借りて、そこで礼拝を行うことでした。皆さんはこのこと分かりますか。「映画館」というのは建物のことですが、ドライブインの場合は車の中で映画を見る形になります。私の子供のとき両親と妹とよく行きましたが、日本はどうでしょうか。これは大きな駐車場で、車を止めるところはスピーカーが置いてあって、そのスピーカーを車の窓ガラスにかけると映画のオーディオを聴くことができました。すべての車はでっかいスクリーンに向かって止まるわけですから、そのスクリーンで映画を見ました。

               

              私の高校二年生の夏、母教会は牧師の勧めで、実際にドライブイン映画館で礼拝を始めてみました。朝9:00の礼拝でしたから、教会の礼拝堂の10:30の礼拝はその後で行われたのです。ドライブインの食べ物、飲み物を販売する建物の屋上で講壇を建て、そこから礼拝の司会、奏楽、そして説教がありました。びっくりしたことに、最初の日曜日からたくさんの人が車で礼拝のために来てくれました!数年間にわたって、このドライブイン礼拝を通して新しい人がたくさん母教会に導かれました。その中ですでにイエス様を信じる人たちだけではなく、その礼拝を通してイエス様を初めて信じて洗礼を受ける人も少なくありませんでした。

               

              ただ、問題が始まりました。新しい方々が教会に来るのは嬉しいことでしたが、その中で教会員と何かが違う人もいました。経済的に違う、人種が違うなど、その様な人が来たのです。ある教会員から、「ああいう汚い人に来て欲しくない」という批判の声が聞こえる様になりました。自分に合わない、自分と違う、自分にとって苦手な人は嫌だ、ということで、イエスに愛された人々を歓迎することができなかったのです。

               

              20年以上も前に日本で似ている様なことを私は経験しました。川崎市のある教会の木曜日の朝の婦人会で家内も私も手伝っていました。友達関係で別の教会の女性の方も来ました。ある日、この姉妹が私に言いました。「先生、うちの教会の牧師の許可でホームレスの人たちが教会の礼拝堂で毎晩寝てしまうことになりました。汚い人たちで、嫌な匂いが礼拝堂に残ってしまいます。そして時によってホームレスの人たちが日曜礼拝の為に残るなら、その様な人の隣に私が座らなければならないこともあります。困りました!」数か月にわたって、この姉妹のそういう文句を聞かされました。しかしある日、姉妹の話は一変しました。「先生、この間の日曜日の礼拝の時、イエス様を信じたホームレスの人は洗礼を受けました!自分の批判を悔い改めました。」ホームレスの人たちの変な匂いはまだなかなか我慢できないと姉妹は言っていましたが、喜びをもってこの人たちを歓迎することができる様になったのです。

               

              キリスト者の人生に、そして教会に、神様がいろいろな人たちを送ってくださいます。もうすでにイエス様を信じる人と未信者。自分に合う人と自分に合わない人も。このすべての人は神様に愛されている一人ひとりです!私たちに選択肢があります。怒りとか許さない気持ちでその人たちを退けるか、あるいは愛と喜びをもって歓迎するか、です。パリサイ人たちと律法学者たちへ、そして私たちへ、イエス様の例え話のメッセージは、「私と一緒に喜び祝おうではないか」となると思います。

               

              イエス様の例え話にも、そしてルカ15章にも「最後」が記されていません。それは昔の人たち、そして今の時代の私たちはどう反応するか、ということは残っています。父なる神様の喜びと愛を共にするお招きがあります。一人ひとりとして、教会全体として、神様の愛と喜びを選んで、神様の愛される人々を歓迎しましょう。


              2020.05.21 Thursday

              5/24説教「イエスからキリストへ、働き続ける主」

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                臼井先生の説教を、YouTubeで見ることができます。

                 

                2020年5月24日「イエスからキリストへ、働き続ける主」

                https://youtu.be/FiM9OyQd_YU

                 

                 

                PDF版を読まれたい方は、こちらからダウンロードしてください。

                 

                 

                 


                2020.05.13 Wednesday

                5/17 説教「父に愛された次男」

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                  2020年5月17日

                  主日礼拝

                  説教 ギャリー•カルソン

                  ルカ15:11−24

                  「父に愛された次男」

                   

                  私たち夫婦には息子が二人います。アダムとアンドル(日本語の聖書ではアンドレとあります)。ポリーンの父親は双子の一人で、他に双子は親戚のなかに2組いるわけですから、もしかしたら私たちにも双子が生まれるのではないかと思ったのです。それで最初の妊娠の時、男の子の名前は二つ、女の子の名前も二つ決めたわけです。産まれてきたのが一人の男の子だけで、名前を「アダム」とつけました。五年後もう一人男の子が生まれたときに、前に双子のために考えていた二人目の名前「アンドル」をつけました。二人とも名前は「ア」から始まって、一人は旧約聖書の名前でもう一人は新約聖書の名前です。

                   

                  アダムとアンドルが私たちの家庭に与えられたことは感謝です。二人は性格が全然違います。一人には、特に中学高校生時代、反抗的な部分があって気が強いのですが、もう一人にはそういうところが全くなくて、穏やかな子でした。二人とももう30歳代になって、自分の家族や仕事を持って、歩んでいる道が違ってきました。私たち夫婦はあんなに違う二人を同じくらい愛します。

                   

                  イエス様が例え話をたくさん使って神の国を述べられました。その中で、「放蕩息子」と呼ばれるのは一番愛された例え話だと言われています。しかしそのタイトルは適していない、と多くの学者が指摘します。このストリーの中心的なのは息子ではなく、父親です。新しいタイトルをつけるなら、「息子たちを愛する父」にしたらいいな、と私は思うのです。

                   

                  イエス様が伝えられた例え話の中で、これは一番長いです。ストリーとして、二つの部分に分けることができる形になっています。最初の方は今日の箇所、ルカ15:11−24で、父親とその次男のことです。これは今日の説教の箇所です。2つ目の部分は25:32で、父親とその長男がテーマです。この二つ目の部分からは今月31日の説教とします。

                   

                  「父に愛された次男」というところを一緒に学ぶ前に、どういうときにイエス様がこの例え話を用いられたかを説明します。ルカの15書の最初のところを見てみます。「さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、『この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている』と文句を言った。」(ルカ15 :1−2)イエスの働きによって、一般社会から嫌われている人たちが多く集まりました。税金を同邦の者から取って、ローマ帝国に渡してしまう(そして場合によって税金として必要以上のお金をとって、その差額を自分の財布に入れてしまう)取税人、生活するために自分の体を売る娼婦など、そういう人たちでした。この人たちはイエスの愛のメッセージと姿に惹かれて、歓迎されたのですが、このことはパリサイ派の人たち、律法学者たちの怒りを買うことになりした。これでイエスは批判の的になってしまいました。

                   

                  しかしイエス様は、この「罪人たち」のために、ご自分がこの世に遣わされたことを示すために、三つの例え話を話されました。「迷える羊」と「なくしたコイン」の二つは15章3節から10節までに記されています。その後は「放蕩息子」です。この三つの例え話の目的は、神様はいわゆる「罪人」を愛され、この人たちを救うためにイエス様が来られたこと、この人たちが悔い改めて神の愛に戻るのは批判すべきことではなく、神と一緒に喜ぶべきことだ、ということです。

                   

                  さて、11節から弟息子のことを見ていきましょう。この下の子は、その時代の人々が聴くなら大変怒るようなことで、お父さんに「財産のうち自分の取り分をください」と頼みました(12節)。その時代のユダヤ教とその習慣では、父親の財産の3分の一に当たる、と言われています。父親の老後の面倒を見る責任は主に長男にあったのですが、次男もある程度責任があったそうです。父親に仕えて親孝行をするのではなく、その財産の一部を持って自分勝手に生きようと考えていたわけです。

                   

                  父親はそのようなことを頼む息子を厳しく罰したとしても当然ですが、逆に息子の願い通りにしました。この12節の「財産を二人に分けてやった」というところの「財産」は言語の単語として「生活」とか「いのち」と日本語に翻訳できます。老後の生活のために蓄えた父親の「いのち」を取ってしまうのです!最低の息子だ、とイエスの例え話を聞いている人たちが思ったに違いありません。

                   

                  この子が、この財産を持って遠い国に行って、そこで色々な遊びで全てを「放蕩して、湯水のように使ってしまった。」(13節)そして予期せぬことで、激しい飢饉が起こりました。もう、お金がないから、仕事をしなければならなくなりましたが、見つかった仕事は、なんと豚に餌をやることでした。豚肉を食べてはならない、とモーセの律法で注意されたユダヤ人にとって、これは本当に最悪の仕事でした。

                   

                  彼はある日、「我に返った」、と17節にあります。「父のところにはパンが有り余っている雇い人が、なんと大勢いることか。」ということを思い出しました。それでこのどん底の中からお父さんのところに帰ることにしたのです。その上で言うべき言葉を考えました。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」(18−19節)これは上手いセリフでしょうか。この例え話としては、彼が本当に悔い改めた心から出たように聞こえると私は思います。

                   

                  この息子が帰路につき、そして自分の生まれ育った家からまだちょっと離れたところまで来ると、もうすでにお父さんが外に出て彼を見つけた、と20節にあります。「今日こそ、帰ってくれるか、帰ってくれるか」と首を長くして待っていたお父さん。そう言うことだけではなく、息子のところにお父さんは走っていきました。その当時、年寄りの方にとってはとても恥ずかしいことでしたが、「我が子が帰った!」との喜びを表しています。

                   

                  父親がこのような次男を喜んで迎えたのです。彼の首を抱き、口づけして(ウイルスの心配がなかったですね!)、迎えたのです。ここで次男が準備した言葉を父親に伝えようとしました。でも、罪の告白と息子の資格がないところまでしか言えませんでした。(21節)続けることができなかったのは、そのお父さんが僕たちに命令しました。「急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足には履物を履かせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのにみつかったのだから。」(22〜24 節)次男は僕として雇われたのではなく、もう一度息子として迎えられたのです!

                   

                  この例え話の中で、いくつかのことが変わっていくのを感じます。次男がそのお父さんと自分の生まれ育った家を捨てて、遠い国に行ってしまった。放蕩の状況から貧乏のドン底に陥ってしまった。そして彼は「我に返って」から、帰ろうとした。その中で、全く変わることのなかったのはただ一つだけでした。それはお父さんの愛でした。その愛を持って、自分を裏切った息子をいつまでも「息子」として見ていたのです。

                   

                  この例え話はある意味でイエス様が「アイデンティティー」のテーマを取り上げています。次男は、いつまでも父親に愛されている、大事にされている息子であるアイデンティティーを捨てようとしました。「我に返った」ときでも、この次男は依然として息子の立場に戻ることは期待できない、と覚悟して帰りました。でも自分の願っていることを遥かに超えて、お父さんが自分を愛する息子として歓迎してくださったのです。実は、そのアイデンティティーは変わっていなかったのです。なぜなら、そのアイデンティティーは父親の愛から与えられていたからです。

                   

                  最近、私はある本を読みました。私の神学生の時新約聖書のことを教えていた教授が書いた本です。タイトルは「Who God Says You Are」ですが、なかなか日本語に表せないタイトルです。その意味は、神様は私たちにアイデンティティーを与えてくださる、と言うことです。アイデンティティー、そして生きる意味、自分の価値も含まれていると思います。普通なら私たちは自分のアイデンティティーは親から、家族から、学校から、仕事から与えられる、と思うかもしれません。しかし聖書を読むと、私たちを創造してくださった方、神様が私たちに自分のアイデンティティーを与えてくださることがわかります。

                   

                  あなたはどうして自分として生きているでしょうか。あなたの人生にはどう言う意味とか価値があるでしょうか。このようなクエスチョンは数年前に高校生や大学生に出されたアンケートに出ました。正しい数字は覚えていないのですが、半分以上の答えは、「なんで私は自分として生まれてきたか、生きるのはどう言う意味があるか、自分の存在にはなんの価値があるか、さっぱり解らない。」と出ていました。本当に悲しいことですね。

                   

                  私たちに生きる意味、価値、アイデンティティーを与えてくださるのは、私たちを誰よりも愛してくださる天のお父様です!今まで自分の過去の失敗、間違いはどのようなことがあったとしても、父なる神様の愛は変わらないことをこの「放蕩息子」の例え話を通して知ることができます。イエス様はパリサイ派の人たち、律法学者たちに、取税人や娼婦の女は、神の愛された子というアイデンティティー

                  を失っていないよ!と伝えられました。このみ言葉で神様が同じようなことをあなたにも声をかけておられることを感じませんか。

                   

                  人生の辛い経験の中で、私たちは原点に帰る必要があると思います。ただ、自分の「原点」はなんでしょうか。放蕩息子、いや父にいつも愛されている次男と同じように、私たちも愛の原点に帰る必要があるのではないでしょうか。生まれる前から、愛を持って神様は私たち一人ひとりを創造されました。愛を持って、私たちが生まれた時から私たち一人ひとりを見守ってくださいます。愛を持って私たちが「我に返る」時、愛の原点に帰る時を待っておられます。そのようになったら、神様は必ず私たちを、愛を持って歓迎してくださいます。

                   

                  私たち新秋津教会も同じです。神様に愛されている教会、と言う原点に帰ることが必要であることを感じます。教会のアイデンティティーは神様にあって、私たちがこれから一緒にそれを求めていこうではありませんか。


                  2020.05.06 Wednesday

                  5/10 説教「実生活の中で現れてくださる復活の主」

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                    臼井先生の説教は、YouTubeで見ることができます。

                     

                    2020年5月10日礼拝説教「実生活の中で現れてくださる復活の主」

                    https://youtu.be/OUYs7OVJ9xE

                     

                    とんぼのめがね

                    あきつ松風通信

                    第119号

                    2020.5.10

                    「実生活の中で現れてくださる復活の主」

                    (ルカ24:13−35)

                    臼井 勲

                     

                     

                    「彼らが”一緒にお泊り下さい。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています”と言って強く勧めたので、イエスは彼らと共に泊まるため中に入られた。そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神を褒め称え、裂いて彼らに渡された。すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は話し合った。”道々お話し下さる間、私たちに聖書を説き明かして下さる間、私たちの心は内に燃えていたではないか”。」(ルカ24:29−32)

                     

                    “新型コロナ”との戦いはこれからも続きます。集まりができないため多くの方々の生活が困窮しています。演劇をする人、音楽をする人、教育関係、観光、飲食、宿泊、交通に携わる方、職人、サラリーマンあらゆる職種の仕事や働きの場が奪われ、収入が少なくなり、生活が圧迫されています。そして教会もピンチに立たされています。新しい通信機器の発達で各自の礼拝がそれらの効能によって命脈を保たれています。

                     

                    さて僕の礼拝説教もコロサイ人への手紙が終わり、次は「使徒の働き」を学びたく思っています。今朝はそこに移る手前の大事なイエスさまの”昇天までの復活のからだ”で現れた働き、その一つである「エマオへの旅人の物語」を学び、そこから大切なメッセージを得たく思っています。

                     

                    二人の弟子が、主イエスが復活された日の午後、エルサレムから11キロにあるエマオという村へ向かう姿が描かれています。二人のうち一人はクレオパという名だと告げられていますが、もう一人の名は明かにされておりません。昔からそれは誰かという議論がされてきました。

                     

                    僕は名を告げなかったのは著者であるルカの霊的な洞察力のなせる業で、敢えて名を挙げないで無名にすることにより、後世の誰もがその旅に参加できる余地を与える為だったと思うに到りました。二人の中の一人は僕だ、あなただと思うとき、この記事は身に迫って活々としてくるのではないでしょうか。

                     

                    さて、二人の弟子は11キロ先のエマオ村に向かっています。最近僕は自宅から12キロ先の江の島まで歩きました。ちょうどエマオと同じ距離です。ゆっくり歩いて4時間かかりました。彼らの足取りも重かったでしょうから、そのくらいかかったのではないでしょうか。

                     

                    彼らは失望し落胆し、下を向きながらボソボソと話し合っていました。それは彼らの師であり、故国イスラエルを救済するメシアと信じていた方のむごたらしい十字架のお姿と、葬られて3日目の今朝その主の遺骸がなくなって、墓は空っぽであるという報(

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                    しらせ)。それだけでも胆をつぶす出来事なのに、数人の女弟子による「主は生きている」という証言。これが彼らの思考と感情を混乱させ、その動転している気持ちをぶつけ合っている最中だったわけである。そこへ見知らぬ旅人が加わったのです。「彼らの目はさえぎられていて、イエスであることが分らなかった」とあります。

                     

                    私たちはひとつの想念に取りつかれていると、目に見える単純な事実が見えないことがあります。あるデパートの店員さんが、彼は英語が大の苦手でいつも「外人のお客さんが来たらどうしよう」と恐れていました。その心配していた矢先に外人客が目の前に現れたのです。彼は動転して、「無理!ムリ!!」と心の中で叫んでいました。その客が品物を指さして何か言っています。彼は夢中で知っている限りの英語を並べ「アイドントノーイングリッシュ」と言った。客はキョトンとして「今私は”これを見せてください”と日本語で言ったのですが・・」と言った。この話は、この店員があまりにも自分の想念に捉われ、「耳がさえぎられていた」ことを示しています。もしそこに無心の子供がいたらどうでしょう「ハイどうぞ」と言ってその品物を示したことでしょう。なまじ大人の方が特定の想念に捉われ、思考にさえぎられていたことを示しています。

                     

                    キリスト教信仰の出発は、イエスの復活という驚くべき単純な事実に基づいています。主イエスの敵も味方も等しくこの事実を信じられなかったことでした。むしろ主を十字架にかけた敵側の祭司や律法学者、ローマの為政者の方が主イエスの生前の預言を覚え、恐れて墓を封印し警備を厳重にしました。弟子たちの方は、彼らが疑ったイエスの遺体を盗むどころか呆然自失の態で、数人の婦人たちを除いてみな逃げてしまい思考停止の状態だった。今や世界中がその状態に陥っているのではと恐れる。その弟子たちのパニック的精神状態を少しずつほぐしていかれたのが、復活の主が彼らと同行されながら聖書からご自身の福音の物語をじっくり説き明かして下さったことだった。二人はなんとゴージャスな旅をしたのだろう。今の私たちも雪で閉ざされた長い夜、否、コロナで閉ざされた自室で、じっくりと主の物語りを、福音書を読み通してみるのはどうであろうか。氷のように凍った彼らの心は春の陽光で次第に溶けていった。後に彼らは言った「道々お話し下さる間、私たちの心は内に燃えていたではないか」と。

                     

                    この光景を描いた美しい絵がある。ホフマン筆の「エマオへの道」である。西に傾く半逆行の陽を受けた樹木の中を語らい行く三人の旅人の姿である。三本の十字架が立つ午後のエルサレムの丘を背に歩くこと4時間、陽は傾き日没は近い。彼らはエマオの宿に着くが、見知らぬ旅人は尚先に行く様子に二人の弟子はこの方と別れがたく、もっと話を聞きたい思いから、強いて泊まってもらうよう説得したと記されている。

                    この情景を詩(

                     

                     

                     

                     

                    うた)った旧讃美歌39番は僕の好きな歌だ。

                    1)日くれて四方(

                     

                     

                     

                     

                    よも)はくらく、わがたま(魂)はいとさびし

                    よるべなき身のたよる、主よ、ともに宿(やど)りませ

                    2)人生(

                     

                     

                     

                     

                    いのち)のくれちかづき、世のいろかうつりゆく、

                    とこしえにかわらざる、主よ、ともに宿(やど)りませ

                    3)世の闇(やみ)おしせまりて、いざないの声しげし、時のまも去りまさで、

                    主よ、ともに宿(

                     

                     

                     

                     

                    やど)りませ

                    4)死の棘(

                     

                     

                     

                     

                    とげ)いずこにある、主のちかくましませば、

                    われ勝ちてあまりあらん、主よ、ともに宿(やど)りませ

                    「そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取り神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」

                     

                    この物語の白眉(はくび)の箇所である。復活のキリストを私たちはどうして信じているのだろう。なぜ信じるのか。ノンクリスチャンの方々は「死人が復活するなどありえない。なぜそんなこと信じられる?」といぶかる。キリスト者だと自ら言う人でも「復活」それはあくまでも ( たと ) えで、物語の世界であると言って ( はばか ) らない人もいる。このエマオへの旅人もずっと一緒にいて話していても、復活した主イエスが分らなかった。主だと認識できなかった。それは心の中にそれを「さえぎる」ものがあったからだ。己の神学、己の哲学、己の想念、己の信念、そういうものにさえぎられてイエスが分らなかった。しかし普段の宿に入り、食卓を囲んで、この見知らぬ旅人が、ごく自然に、ごく普通のユダヤの家庭の主人として子供たちに与えるように、パンを取り、裂いて彼らに配るその姿に、彼らはかつて自分が育った家の子供になって、その人を見たとき初めてイエスだと分かったのであった。

                     

                    「誰でも幼子のように神の国を受け入れるものでなければ神の国入ることはできない」とかつて言われていた主イエスのことを思い出す。この光景を最も味わい深く描いたレンブラントの「エマオのキリスト」の絵がルーブル美術館にある。1648年のレンブラント円熟期の作品。左右に座る二人の弟子の中央の食卓に主イエスがパンを裂く瞬間、目をやや上に向け神を賛美する姿、右脇の宿屋の召使いの少年がパンの皿を差し出している。右手のクレオパとおぼしき弟子がハットした面持ちで主を見つめている。左手の弟子は表情が分らないが手を口に向け驚く動作を見せている。やわらかな光がキリストから発せられあたりを包み込んでいる。

                     

                    正に古今の名画である。その瞬間”復活の主”の姿は見えなくなった。彼らの心に信仰が生じた時だ。復活の主は彼らの心にられた。彼らはきびすを返し、夜の道をエルサレムへと戻って行った。他の弟子たちも集まっており、二人は喜びに満ち溢れて主にあった体験を語った。復活の主は今も普段の生活の私たちの最中に現れてくださる。

                     

                    決して感情が高揚した集会の場ではなく、当たり前の生活の現場に”コロナ”を避けて家にいて食卓を囲むパンを裂き祈る所に復活の主は共におられる。

                     


                    2020.04.30 Thursday

                    5/3礼拝説教「良くなりたいか」

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                      2020年5月3日

                      聖日礼拝

                      説教 ギャリー•カルソン

                      ヨハネ5:1−15

                      「良くなりたいか」

                       

                      「Zoom疲労」という新しい表現をこの間聞きました。Zoom会議を初めて使っている方々はこの問題を経験しているそうです。新型コロナウイルスのことでひとつの部屋で仕事仲間や会社のお客さんと集まることができない代わりに、オンライン会議が利用され、Zoom会議が急に増えています。短い間この新しい技術を覚えなければならないストレスが溜まって、疲れが出るそうです。特にそのミーティングのホストは大変です。ある利用者はオンライン会議を開催して、ミーティングの終了後、他の仕事ができないくらい、深い疲れを覚える、と話しています。どうやってその疲労が癒されるでしょうか。

                       

                      最近のニュースで、パチンコ店がウイルス感染の心配があっても、緊急事態宣言があっても、毎日お客さんを迎えることを聞きますね。店の方はいつものように収入が入るように、と考えています。お客さんの方は退屈で、自粛ができないから、パチンコ店に足を運ぶしかない、と訴えます。

                       

                      今週はゴールデンウィークです。友達と、あるいは家族と、何か楽しいこと、なんでもいいから出かけてやって見たい気持ちはわからないわけではないでしょう。でも、今の状況の中で、国から、東京都とその周辺の各県から、「ステイホーム!」と私たちは言われていますね。皆さんは今週の連休をどう過ごすように考えているでしょうか。

                       

                      コロナウイルスにかかっている患者さんたちは早く癒されたいでしょう。かかっていない人々も、もっと自由に仕事をしたり、普通の生活に戻ったりするには、自分の町、国、そしてこの世界がウイルスから癒されるように切に願っています。この状況の中で、仮に誰かが私たちに「良くなりたいか。このウイルスから解放されたいか。」と聞くなら、私たちの返事は多分「馬鹿な質問だ、そうなりたいのは当たり前!」となるでしょう。

                       

                      イエス様が三年間の地上の働きの間、大勢の人々の病気を癒されました。そのことで有名になったイエス様に、多くの人がみ前にきて、癒されるように懇願しました。でも今日の聖書の箇所は違います。イエス様がある病人に突然「良くなりたいか。」と尋ねられました。変な質問のように聞こえるでしょう!

                       

                      その当時、エルサレムに「ベテスド」という池がありました。水が不思議に動くと、一番先に池に入る人の病気が治る、という評判がありました。ですからそこで水が動くのを待っている病人、体の不自由な人がたくさん集まって待っていたのです。その中の一人の男の人はなんと38年間病気にかかっていました。詳しいことは書いていませんが、この病気で体が動けなくなったようです。

                       

                      この人がイエス様に、「わたしを治してほしい」というお願いをしませんでした。この方がイエス様、神様から遣わされて、人を癒す力を持っている方であることは彼には知らなかったらしいです。しかしイエス様は彼のこと、病のことをよく理解しておられ、彼に「良くなりたいか」と聞かれたのです。

                       

                      イエス様がどういう方であるか、知らないわけですから、男の人は「はい、よくなりたいです!」と答えたのではなく、水が動くようになったら、私をいけに入れてくれる人がいないからダメだ、と言いました。この人は癒されるのを諦めたでしょうか、あるいは言い訳しか思い付かなかったでしょうか。もしかしたら、この人は38年間病と付き合ってきたので、そのような生活に慣れてしまって、癒されようとしなかったかも知れません。

                       

                      病人の言い訳にイエス様は耳を傾けようとされませんでした。説得しようともされなかったのです。イエス様はただもう一度声をかけてくださいました。「起きて床をとりあげ、歩きなさい」と。そして男の人は実際にそうしました!体が癒されたのです!奇跡でした!しかし結果で、ユダヤ人のリーダーたちはイエス様を迫害し、殺そうと思うようになりました。なぜかというと、安息日でイエス様がその人に床を取り上げるように言われたからです。安息日で仕事をしてはいけないという決まりで、イエス様はこうして神の律法を守らないとユダヤ人のリーダーたちは決めつけたのです。

                       

                      この箇所は非常に興味深い話ですね。今朝、皆さんと考えてみたいところはイエス様が病人に聞かれた、「良くなりたいか」という質問です。どうして聞く必要があったでしょうか。38年間患ってきた病気から病人は癒され、解放されることを願っていたに違いありません。

                       

                      ただ、病気の状況に慣れてしまって、癒されることを諦めたこの人は言い訳しかなかったのでしょう。それは推測に過ぎません。でもそのような絶望に彼が陥ったとしても、イエス様が「起きて床を取り上げ、歩きなさい」と仰った時に、彼はすぐにイエス様を信じて、言われるようにしたがったのが本当に素晴らしいところだと私は思っています。私たちはこのことから何か学べるべきことがあるのではないか、と私は思います。

                       

                      私たちの人生の中に、まったく同じようなことが起こらないかも知れません。でも、いつかは何かのドン底、絶望に陥ってしまうことを誰でも経験するでしょう。失業、病気、死別、人間関係で何かがダメになってしまう、いろいろな可能性があります。そしてそのような時に、今日の箇所の病人と同じように、「私は一人で、助けてくれる人はいない」と感じるかも知れません。

                      でも私たちが経験する問題は決して絶望で終わるわけではありません!イエス様は私たちのことをよく分かってくださいます。イエス様はそのような私たちを深く愛して、哀れんでくださいます。助けてくださるお方です。

                       

                      ある状況の中から、私たちはイエス様に向かって、「助けてください!癒してください!この問題から解決されるようにしてください!」と叫ぶこともあります。あるいは問題に慣れて、解放されることを諦めてしまうところでイエス様が私たちに「良くなりたいか」と優しく声をかけてくださいます。

                       

                      ここで大事なのはイエス様を信じて、言われることに私たちが従っていくか、ということです。すべて諦めた状況、絶望の状況の中から起きて、イエス様に向かって歩き出すことです。

                       

                      この聖書の箇所は今日私たちのためだ、と私は信じています。皆さん一人ひとりのためです。もし、あなたが今大きな問題を直面しているなら、イエス様に向かって助けを求めていただきたいです。あるいはもうすでにイエス様が何かをあなたに仰っているのでしょうか。祈りを持ってイエス様の声に耳を傾けてください。癒されるように、助かるように、解放されるように、今イエス様は何と言われるでしょうか。

                       

                      そしてこの箇所は私たち新秋津教会のためにも与えられている、と私は信じています。この教会は癒される、解放される必要があります。イエス様はそのように私たちを助けてくださることを私は信じています。私たちのどういうところがどういう風に癒されるか、またイエス様が具体的にどのようなことをなさって私たちの教会を癒してくださるかは私には分かりません。しかしその癒しを与えてくださるイエス様を私は信じて、従いたいです。「起きて、歩きなさい」、というイエス様の声が聞こえますか。一緒に従っていこうではありませんか。


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