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新秋津キリスト教会のブログへようこそ。 初めての方はまずカテゴリー内の「最初にお読み下さい」をご覧下さい。
2010.06.10 Thursday

人は死んだらどうなるか

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    人生儀礼について 


    人は死んだらどうなるか

     

     主イエスが死から肉体を持って復活されたとき、弟子たちは信じられず、また期待もしていなかった、と聖書は記しています。主イエスが前もって何度も死と復活を語っておられたというのに、頭でわかっていることと本当に信じていることとの問には距離があります。

     

     私たちの場合はどうでしょう。以前、日本のクリスチャンへの信仰に関するアンケート調査を思い出します。驚いたのは体の復活を信じると答えた方が半数を超えていたものの、みんなではなかったという点です。教会で聖書がそのまま語られていない事実があるのか、精神的・象徴的な意味にすりかえられてしまい、常識的な理解にとどめようとされているのかもしれません。体の復活を信じるということは、今も信仰を持つ者へのまじめな問いかけなのです。

     

    日本の国で霊魂の存在を信じる方は多くいても、自分の体の行く末を考える方はどれくらいいるのでしょう。以前、「人は死んだらゴミになる」という言葉を見かけました。退廃的で享楽的な生き方を象徴する悲しい表現です。昔の日本では死んでも「別人」、しかも「血縁」に生まれ変わることを期待し、特に小さな子どもはあえて家の近くに埋葬したようです。しかし一般には、遺体の復活を恐れ、縛ったり、ひざを折ったり、石を抱かせたりして埋めたようです。つまり、墓地は怖い所だと考えられていました。それは私たちの国では、生まれ変わりを願う信仰はあっても、体の復活は望まず、土に返すものであり、「別人」として生きたいと考えられていたからです。

     

     ところが徐々に時代がくだるに従い、遺骨に対するこだわりや墓への執着が増し、反対に見えない世界への関心が薄れてい造泙靴拭死んだら「あの世に行く」というより、「墓で暮らす」というような現実的な思いが強くなっています。墓に関する以前の暗さは消え、「死後のすみか」として、日当たり良好、風光明媚(ふうこうめいび)な場所を求め、墓の形や色や方向にこだわります。まるで、建売住宅を探している風景です。

     

    自分が見て経験していることしか信じられなくなっていく私たちに、復活のできごとは、「あなたは神のカを信じるか」と問いかけています。信仰は、私たちの常識や、私たちの経験以外にも真実があることを教えてくれるのです


    2010.06.09 Wednesday

    聖書が語る死の二つの意味

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      人生儀礼について 


      聖書が語る死の二つの意味

       

       病院には四号室がまずありません。時にはホテルやアパートにも見当たりません。過剰と思えるほどに四=死という連想にとらわれています。これは多くある忌み言葉のたぐいであり、言霊信仰(ことだましんこう)が背景にあって、不吉な言葉を口にすると現実になるとの縁起をかつぐためです。また死を穢れ(かがれ)・不浄と考えることが長く息づいており、清めの塩に代表される習慣が残っていることからもうかがえます。仏教が日本に受容された理由のひとつに、死者を葬る役割を引き受けたことをあげることができます。

       

       死にまつわることで、昔から大切にされてきたことの一つに、死に際、散り際を大切にするという考えがあります。「終わり良ければすべてよし」ということで、死を迎える時がおだやか・安らかであれば先々も幸せであろうとか、生前の行いが良かったからだと理解しますが、もし万一、苦しみの中で死んだり、非業の死を遂げたりすると、陰口さえ言いかねない雰囲気が残っています。これは死を美化する「いさぎよさ」、「みごとさ」が武士の精神として広まったものと思われます。しかし実際には、死に至る状況は千差万別であって見た目ではわからないものです。

       

      さて、死について聖書が「罪の結果」であると教えているのは、聖書を知る人にとって常識です。しかし別の面があります。つまり、罪を犯すようになつた人間にとって死は「神のあわれみ」でもあるのです。創世記 三章二十二節には「手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように」されたと記されています。罪を犯し、病に苦しみながら、人生の苦労を背負いつつ生き続けることは、苦痛であり恐ろしいことでもあります。それよりむしろ罪の人生に一度終止符を打ち、救いの道を備えて、復活の生命に生かすことを神は準備されたのです。

       

       聖書が死について警告するのは、死そのものの恐ろしさではなく、死後のさばきがあるからです。ですから、今の人生の大切さを説き、死から新しい生命への救いを語るのです。不吉な言葉や病気の苦しみ、寝たきりになることへの不安にとらわれるのではなく、今の時を神とともに生きることが、最も良い死への備えであり、確かな希望の道です。いかに死ぬかというよりも、死に至るまでの人生をいかに生きるかが大切ではないでしょうか。


      2010.06.08 Tuesday

      「アバ、父」と呼ぶ信仰

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        日本人の精神風土について 


        「アバ、父」と呼ぶ信仰

         

        私たちの世界に主イエスが来られたことは、「神」という方を知るうえでも大きな意味がありました。イエスは私たちに、聖く偉大な神を身近な「お父さん」と紹介してくださったのです。

         

         日本人は甘えの感情が強いと言われますが、それは宗教面においても同様です。日本の神々の中には怖い神もありますが、話のわかる優しい神が多くいます。仏教においても観音信仰や阿弥陀仏信仰は、慈悲に満ちた、すべてを抱擁する仏を対象とするものであり、仏は男性でありながらも母性豊かな甘えをも許す存在として語られています。私たちは身近な両親などを通して神や仏を理解します。宗教には信仰の対象(神や仏)に対して程度の差はあっても、父性と母性を見いだしています。

         

         聖書には「甘える」という言葉は出てこないそうです。言葉としてはそうであっても、それを連想させる言葉やできごとは記されています。主イエスに対する弟子たちの言動の中にも、使徒たちが教会に宛てた手紙の中にも出てきます。また主ご自身が教えてくださった主の祈りの最初の言葉である「アバ、父よ」で、信頼をもって親しく呼びかけることを許してくださっています。

         

         甘えるという青葉は「相手の好意に寄りかかる」という意味を持ち、言葉や身振りを表し、平安時代にはすでにこうしたことが男女において、そしてやがて親子の間柄においても認知されてきました。

         

        甘える、甘えられることをよしとする風潮が少なくなっている今でも、心の奥底では確かに求めているような気がします。しかも、それは年齢に関係なく、教会においても甘えの関係が存在し、居心地のよさや、逆に人間関係のもつれの一因にもなっています。

         

        主イエスが語られたルカの福音書十五章の「放蕩息子」では、弟も兄も各々において父親(神)に甘えています。弟は赦しを求めることにおいて、兄は、弟を赦す父親の寛容さに嫉妬する面において、甘えているようにも見えます。

         

         主イエスはどんな幼少時代を過ごされたのでしょう。きっとヨセフとマリヤの愛情のもとで、甘えを通って自立されたのでしょう。ですから、主も弟子たちが甘える言動をしても許し、受容されたのです。主が父なる神を信頼し歩まれたように、私たちもまた、私たちのことを何でも知っていてくださる方として、甘えて祈れます。本当は何の資格も権利もないのに。そこに恵みと安心があります。


        2010.06.07 Monday

        日本人は神を見失った

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          日本人の精神風土について 


          日本人は神を見失った

           

          街から緑が消えていく中で、豊かに残っている所は公園か神社仏閣ぐらいです。私たちの生活周辺に必ずある神社は、宣伝や布教活動を特にしなくても、習慣や行事の中に存在感を持っています。神道は私たちの国で生まれ育ったもので、文化や伝統の中に根を張り、「宗教」としては意識されにくい面があります。

           

          仏教との出会いは、神道に大きな影響をもたらしました。神道と仏教は1500年におよぶ歴史の中で、時に友人であり、時に敵対し、時にパートナーのような歩みをしてきました。神道は本来、自然そのものが宗教の対象であったことから、自然を神の住まい、社と考え、身近な山も丘も神聖な場所であって神々の座する所と考えていました。神々は霊的な存在でしたので、依代(よりしろ)を設け、俗人が近づくことを避けました。ところが、その神道も、荘厳な仏教の建物や仏像に刺激されて、神々を社に鎮座させ、しかも御神体として神像まで設けるに至って、里や町中に祀るようになりました。そして、参拝する人にとっては便利になったものの、本来神道の真髄である「清さ」や「畏敬」の意識が薄れ、寺院と並立するようになったのです。

           

           神道をみると、部分的に聖書の神と似ており、神は霊的な存在と考えられ、近寄りがたい清さがあり、暮らしを支え見守る存在として理解されていることを私たちは知ります。言うまでもなく、日本の神々は聖書の神と多くの点で違っているものの、神道の人たちは、直感的にその気高さを感じ取っていました。神道は初詣や祭り、七五三を見るかぎりでは相変わらず盛んに見えますが、その基盤は少しずつ揺らいでいます。なぜなら歴史とその信仰をみると、神道が神道としてその特色を形成してきたのは、畏敬の念を起こさせるような豊かな自然があったことと、家族や地域の中に強い共同体意識があったことによるからです。だから自然を大切にするという思いを育ててきたのです。しかしこれらが壊れていく中で、どこによりどころを求めていくのかが問いかけられています。

           

           神道は、自然そのものを神とみたことにより、創造者なる神を自然の中に埋没きせてしまいました。しかし、主イエス・キリストは私たちに、隠された神を明らかに示されたのです。ここに福音があります。

           

           神道は自然の美しさや恵みをたたえますが、聖書はそれを造られた神の、私たちに対する愛を教えています。


          2010.06.06 Sunday

          宗教はたしなみか

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             日本人の精神風土について

            宗教はたしなみか

             

            日本人にとって「宗教」には、あまりかかわりたくない面と、たしなみとして重宝している面があります。「宗教とセースお断り」という門前の札には、厄除けのお守りのような趣があって、現代人が宗教色の濃いものを拒否してしまうことを表して

            いるようです。

             

            とはいっても、「宗教心」は大事だと多くの方が認めています。ですから、正月やお盆、お祭りを粗末にしません。結婚式や葬儀がどんな形式であっても、その流儀に合わせます。たとえ自分が特定の宗教を持っていても、ことを荒立てず、それが礼儀・たしなみだと心得ているからです。

             

             クリスチャンが仏式や神道式に疑問や反対の態度を示すと批判されてしまうのは、宗教より付き合いを優先させ、「郷に入りては郷に従え」を礼儀とする、そのような心が働くからでしょう。自分のしていることが宗教と見られることを嫌がり、むしろそれは当たり前のことと考え、特定の宗教の範噂に入れてほしくない、つまり「宗教行為は敬遠するが、儀礼や宗教心は大事に思っている」のです。

             

             ただ、あなたもご存じのように、宗教には、普段の生活を過ごすにあたり、自分に都合のよい教えだけでなく、今の生活を改めることや制限すること、自分の情感や価値観と違う部分をも必ず持っています。時に自ら制約や戒めを守ろうとはしますが、それもなにか自分の必要がある場合に限られます。社会と深くかかわっている人がクリスチャンになるかどうかを迷う理由として、付き合いや、たしなみとして割り切れなくなるむずかしさや不便さを感じるようになることが考えられます。宗教としてのキリスト教(礼拝や奉仕など)を避け、雰囲気としてのキリスト教(結婚式やクリスマス)を求める心理がここにあります。

             

             日本人にとって宗教が生活安定のための儀礼であり、必要なたしなみとして受け入れられているかぎりでは、好意的に迎えられます。しかし、面倒で堅苦しいものと映れば、たとえ仏教でもわずらわしいものとしてしりぞけられるという歴史があります。不都合な事態が生じたとき、その人の本音が「信仰か、たしなみか」で問われることになるのです。日本人にとって宗教は自分がコントロールするものであって、これに縛られるものではないのです。

             

             こうして、多くの人が宗教を、季節ごとに衣替えする服のように自由に身にまとってきたのです。


            2010.06.05 Saturday

            なぜ?という苦しみに直面する時

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              毎日の暮らしは、平凡な出来事の連続です。小さな喜びや悲しみ、そしてすぐに忘れてしまうような出来事の積み重ねです。しかし時として理由のわからない事や、納得できない災難や不幸が起こります。その疑問への答えを求めて、私たちは宗教に目を向け、占いなどに足を運びます。

               

               仏教は、こうした疑問に縁起という解決を与えようとします。縁起とは、すべてのことは相互に依存しているということです。私たちの暮らしも、周囲のすべてが互いに影響し合って、今のようになっているというのです。「これあるに縁りてこれあり、これ生ずるによりてこれ生ず」と言われるように、だれかが決めるものではないが、すでに生じたものであると説明されます。その中で「苦」の原因を作っているのが無明・煩悩と呼ばれるものです。無明や煩悩から解脱(げだつ)するために、身体や心や精神を座禅や称名などによって統一し、必要に応じて鍛錬し、とらわれのない静寂な心を得ることで、この複雑な縁起を理解することが悟りということになるのですが、普通の人にとっては困難なことです。そこで在家者にできうることは、現実を受け入れ、それに順応しながら、互いに苦しみをもつ者として、慈悲の心をもって現実を乗り埠えるよう励ましを与えます。

               

              さて聖書は何と答えるでしょう。私たちの人生に起こるさまざまの苦しみ、不幸の原因は罪(自分中心)であり、罪が苦しみを生んだと教えます。そこで私たちはまず罪を自覚し、悔い改めて、神に従う人生へと方向転換し、神の与えてくださる助けと助ましを受けて困難に対処するよう勧めます。
               

              たとえば旧約聖書にヨプ記という書物があります。そこに記されているテーマは「人生の苦しみ」についてです。ヨプは自分と家族に突然おそいかかった不幸や苦しみに対して、初めは神のみこころならと考え、受け入れ順応しょうとしますが、耐えがたい苦しみの中で次第に神に対して不満を言い始めます。そこで神はヨプに対して、神の配慮の深さと、それをはかり知ることのできない人間の理解の限界を諭されます。そしてヨブはついに自分の思いを超えて、思慮深い神の配慮・摂理にゆだねることを学んだのです。

               

               私たちは毎日の出来事の背景にある理由をすべて知ることはできません。何が何でも知りたいという衝動にかられると、迷信やこじつけの世界にのめり込んでしまいます。不安こそ 私たちが最も苦手とすることです。信頼できる方である神を知り、その方に支えられている事実を経験することは、すばらしいことです。そのために日ごろの礼拝や求道を大切にしましょう。


              2010.06.04 Friday

              日本の祈りと聖書の祈り

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                 毎日の暮らしの中で、信仰の有無にかかわりなく用いられることばに、「お祈りしています」という挨拶があります。これは決してお世辞ではなく、自然のきびしさの中で、助け合って生きてきた人々の心情だったと思います。日本人の祈り(祈願)は安産の祈願に始まり、極楽往生の祈念に終わると言われるほど、生涯を通じて祈り心は豊かなようです。

                 

                一般に祈られている内容は、健康と治病、縁結びと安産、商売繁盛、五穀豊穣、人間関係、合格祈願、交通安全、信仰心の祝福などの暮らしと深くつながった事柄です。これらの祈りは、生活の向上や祝福、現状が守られ安泰であるよう、災いの除去などが主な願いです。

                 

                 祈りが聞かれ願いが成就するためには、絵馬や旗や日用品の奉納物を献上し、お願いする側も何らかの努力をもって報いようとします。たとえば、水ごり、おこもり、お百度参り、千社詣、巡礼の類や好きな物や生活に必要なものを断つことで熱意を示すことすらします。考えてみると、こうしたやり方は、私たちが暮らしの中で、だれかにお願い事を依頼する時の作法や、けなげさに似ており、情と誠意を汲み取っていただこうとする姿に似ています。

                 

                 このように日本の祈りは、生活のあらゆることをひたすら熱心に、自分でよく理解もしていない不特定多数の神仏に数多く祈ることで満ち足りようとしました。

                 

                 聖書においてはどうでしょう。そこには祈る者の姿や祈りの勧めが多く見いだされます。聖書の祈りは、祈る者と神さまとの交わりであり、見える私たちの世界と見えない神さまをつなぐものです。神さまは私たちに祈りを奨励し、祈りの良き手本となる人々の実例を示されました。旧約聖書の人々も毎日神に祈り、日々の生活の必要や心の願いを祈って暮らしを守られました。また、祈りの内容を主イエスご自身が示してくださり、私たちはそれを「主の祈り」と呼んでいます。

                 

                 イエスさまが遣わされて後は、新たに「イエスの名によって」祈るように教えられました。「(わたしの名によって)求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです」(ヨハネ 十六章・二十四)。祈りは神さまが与えてくださった賜物です。ですから、祈りはお勤めではありません。しかし、実際に祈らなければわからないことが多くあります。日に映る出来事は、見えない神さまの御心で支えられ、変更され、導かれています。どんな神仏でもよいから、ただ熱心にというのではなく、祈りを聞かれる神を知り、信頼して、「イエスの名によって」祈りましょう。


                2010.06.03 Thursday

                信仰を人生の土台としよう

                0
                   

                  起きる時から眠りにつく時まで、何一つとして努力なくしてできる事はありません。多くを習慣として行っていますが、習慣もまた努力の積み重ねなくして身につかないものです。家庭でも学校でも職場でも、また趣味にも努力が求められ、励まされます。私たちの好きなことばの一つは「努力」であり、努力する人を立派な人と考えます。こうした環境の中で暮らしてきた私たちにとって、信仰もまた「努力」の対象として理解されます。

                   

                   あなたが初めて教会に行ったとします。まず雰囲気や人に慣れることに始まり、聖書を読む、祈りをまねながらやってみる、学びや奉仕に参加するといったなかで、信仰の理解は少しずつ増し加わってきます。次第に教会が自分の生活の一部となり、たとい雨風の日でも、また体調のすぐれない時でも礼拝に行かないと物足りなさや罪悪感すら覚えるようになったとします。こうした面だけを見ると、確かに信仰も努力の結果と思いがちです。

                   

                   でもちょっと考えてみましょう。主イエスはマタイの福音書(七章 十三)において、私たちに「狭い門(信仰による救い)からはいりなさい。滅びに至る門(努力や善行によって救いを目ざす)からはいる人が多い」と警告しておられます。主イエスといっしょに十字架にかけられた男の一人は借仰だけによって、行いや努力と違う方法で救われたのを思い出してください (ルカ 二三章・四十三)。

                   

                   ここで私たちの周囲の信仰に目を転じてみましょう。あなたもご存じのように仏教では、他力と自力の救い(悟り)を教えています。自分でどちらでも選べるのです。キリスト教の視点から見れば、他力(信仰)と言えるのは浄土宗や浄土真宗のみで、他の宗派は多かれ少なかれ努力・自力を語っています。念仏もまた行の一つとして理解されています。行をすることによって煩悩を絶ち、悟り(こだわりのない心)に至ることを目ざすのです。

                   

                   私たちはこうした宗教的背景の中で育ってきていますので、知らないうちに礼拝出席や聖書を読むことや祈ること、奉仕をすることが救いに必要、あるいは救いの保証と思い違いしやすいのです。ですから聖書を読めない、祈れない等といった状況ができると、罪悪感や不安を覚え、自分の救いをも疑う心境にもなります。確かに聖書は私たちに命令もし、戒めも与えます。しかし、それは私たちに罪と義を数えるとともに、自分の力ではなく神に頼ることを敢えているのです。主イエスが私たちの罪の罰を受け、代わって神の律法を成就してくださいました。ですから、私たちの努力は信仰が土台にあり、その力をも神が与えてくださいます。努力する力も信仰から生まれます。神の助けのない、自分だけの努力は行き詰まる時が来ます。神を呼び求める人には、助けが来ます。

                   


                  2010.06.03 Thursday

                  自分のことばで聖書を読む

                  0
                     

                     

                     夏を迎えると、各地でお盆行事が行われます。お坊さんを招いて先祖のために読経してもらい神妙にお経を聞く光景が見られます。お経は、聞く人がその意味を理解できなくても、お経そのものの力により、功徳が与えられると一般に考えられます。読経のあとでお坊さんが法話の形で説明してくれて初めて、納得できるのです。

                     

                     しかし、こうした考えは、中国で生まれたとされる「梵網経」などによって教えられたことであり、法華経や無量寿経という経典には、お経を信じて読み、理解し、実行すれば功徳があると教えられています。もしそうであれば、聖書に対する私たちの態度と通じるものがあります。でも現実には、読経イコール功徳といった呪術的・神秘的要素を重んじ、信仰や努力が軽んじられてしまっているのです。

                     

                     お経は、現代訳がむずかしいとされます。これには幾つかの理由があるようです。まず、長い歴史の中で信仰の内容や用語が違うところがあって、すべての宗派が一応納得できるような共通訳が困難であることが生じて、そのため部分的に現代訳が出ています。次にまた日本の経典は中国で訳された漢訳仏典を重んじ、そのすぐれた訳と響きのために、また日本語の問題もあって、訳しにくいようです。さらには、あまりに膨大な経典の数ですので、労力も、時間も、費用も莫大なのです。

                     

                     これに対して聖書はその内容を理解し受け入れられるように、どんな国、どんな民族のことばにも訳そうと努めてきました。キリスト教が伝道の最初に手がけたことは、その国のことばに訳することでした。現在、ウィクリフ聖書翻訳協会などの働きにより、まず その国・民族のことばに聖書を訳する働きがなされています。日本語訳だけでも、今教会で使用している聖書は文語訳、口語訳、新改訳、新共同訳などがあります。

                     

                     これは聖書を読むことだけでなく、理解し従うことを大切にしているからです。主イエスは群衆に向かって「耳のある者は聞きなさい」(マタイ十三章 九)と語り、「聞いて悟りなさい」(マルコ 七章十四参照)と呼びかけられました。聖書は読んだり聞いたりして、理解し従うことなしに、祝福(功徳)はないと教えるのです。「あなた(神)のみことばは、私の足のともしび、私の道(人生)の光です」(詩篇 百十九章 百五)。いつでも自分の理解できることばで読める恵みを大切にしましょう。隣国の中国のように、数十人に一人のクリスチャンしか聖書を持てない状況があることを思えば、今の私たちが、いかに恵まれているかを知ります。


                    2010.06.01 Tuesday

                    お経と聖書、どう違う?

                    0
                       

                       キリスト教の聖典は聖書であり、仏教の聖典はお経です。経ということばは、物事の筋道を記し、人々の規範となるものという意味があって、バイブルの意味する規準・尺度と通じ合うものです。ただ聖書一冊に比べて、お経の分量は膨大であり、八万四千の法門と言われていますが、実際には三千数百巻ほどです。ですから、専門の僧侶の方でも自分の宗派に関係したお経以外は知らないのが実情です。

                       

                       実はこの点が、お経と聖書のそれぞれの特色を示しています。聖書は一冊のみで、それ以外の書物を外典や偽典と呼んで区別します。内容が吟味されたうえで残されてきた「神のことば」と呼ばれる聖書の教えを信じる信仰によって、救いが与えられ、クリスチャンとして成長すると理解しますので、解釈にも妥当性が求められます。このため異端と判断される数えを排除し、正統な神の教えを守ろうとすることに教会は責任を負ってきました。

                      このために教会会議が開かれ、信仰基準や信仰告白や教理問答等と呼ばれるものが作られたのです。

                       しかし仏教では、真理は一つであっても、それを受け取る者の解釈は多様と理解しますので、小乗も大乗も密赦も仏救として互いに共存します。すなわち仏教は、真理を受け取る人の判断にゆだねようとするのです。ですから他宗派を批判し、自己を正当化することを良しとしない不文律があるのです。

                       

                      聖書は、各部分において違う人が書いても、執筆者の人格と思想に働かれた方は神であると理解しますので、「神のみことば」と呼ばれます。これに村しお経は「如是我聞」(私はこのように聞いた)という書き出しで始まり、著者はすべて釈尊(しゃくそん)に帰されます。お経には経だけでなく、規律を規定した律、経や律を解説した論集が含まれますので、膨大となるのは当然であり、これからの未来においても経は増加します。仏教の経の特色を多様性と呼べば、キリスト教の聖書は一貫性です。

                       

                       昔から聖書の内容は、読む側の私たちの理解が勝手や自由にもちこまれる危険がありました。すなわち「神のみこころは何か」ではなく、「私たちはどう読むか」が優先されようとしたのです。ですからペテロは、「聖書の預言(みことば)はみな、人の私的解釈を施してはならない」(競撻謄躇貍蓮二十)と語り、神の導きと助けが必要と語っています。
                       

                       私たちが自由に手にし、読むことのできる聖書、このこと自体は感謝なことですが、あなたの人生の祝福と正しい信仰に結びつくためには、協力者・助言者が必要です。そのためにも教会があります。


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