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2020.10.28 Wednesday

2020年 礼拝再開に関するお知らせ

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    聖契キリスト教団 新秋津キリスト教会

    主任牧師:ギャリー・カールソン

     

    お知らせ

    新型コロナウィルスの影響から当教会も教会での主日礼拝を中止しておりましたが、9月6日(日)から再開しました。ただし、感染の状況によっては再休止する場合もございますので、ホームページ等、御確認いただけましたら幸いです。

     

    なお、しばらくは礼拝説教の内容等は、当ホームページでもご覧いただけますので、ぜひご利用ください。過去の礼拝説教は、ホームページの左側にある「カテゴリー」の「2020礼拝説教」でお読みいただけます。(毎週水曜日あるいは木曜日に更新)

     

    また、主任牧師執筆の「牧師の書斎から」、臼井先生執筆の「床や談義」「とんぼのめがね」も掲載しておりますので、併せてご覧ください。表示されている以外の記事は、「カテゴリー」の「牧師の書斎から」「床や談義 とんぼのめがね」に保存されています

     

     

     

     


    2020.10.28 Wednesday

    11/1 週報

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      2020年11月1日 第1主日礼拝

       

      説教:ギャリー・カールソン師

      司式:神谷知晴兄

      奏楽:堀田八重子姉

       

      前奏

       

      礼拝招詞     詩編29篇2〜4節(新約P.959)

       

      讃詠           No.83   

      聖なるかな 聖なるかな 

      聖なるかな 主なる神

      主の栄光は 地にみてり 

      聖なるかな 主なる神

      ダビデの子に ホサナ、ホサナ 

      み名によりて 来たる主に

      祝福あれ 栄えあれ いとも高き 

      神にホサナ アーメン

       

      罪の告白       詩編51 (旧約P.985

       

      始めの祈り 

       

      主の祈り

      天にまします我らの父よ。
      ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。

      みこころの天に成るごとく 地にもなさせたまえ。
      我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
      我らに罪を犯す者を、我らがゆるすごとく

      我らの罪をもゆるしたまえ。
      我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。
      国と力と栄えとは 限りなく汝のものなればなり。アーメン。

       

      賛美            No.355

      1主をほめよ わが心    主をほめよ 世の人よ

       そのみ業に 秘められた  強い力  深い知恵

       

      2世のすべて とどまらず  はてしなく 変わりゆく

       主のことばに 従って   海の中に 山うつる  

       

      3造られた ものすべて   世の人も 賛美せよ

       こずえ高く 鳴く鳥の   歌よ響け 山越えて

       

      4主をほめよ わが心    そのみ名に ほまれあれ

       主のみ業の 偉大さを   声のかぎり ほめうたえ

       アーメン

       

      聖書朗読     マルコの福音書 6章:45〜56節 (新約P.78)

       

      説教      「イエスのみわざを認めて」

       

      祈祷 

       

      賛美            No.461

      1みめぐみゆたけき 主の手にひかれて

       この世の旅路を  あゆむぞうれしき

        たえなるみめぐみ  日に日にうけつつ

       みあとを行くこそ  こよなきさちなれ

       

      2さびしき野べにも にぎわう里にも

       主ともにいまして われをみちびく

        たえなるみめぐみ 日に日にうけつつ

       みあとを行くこそ こよなきさちなれ

        

      3けわしき山路も  おぐらき谷間も

       主の手にすがりて やすけく過ぎまし

        たえなるみめぐみ 日に日にうけつつ

       みあとを行くこそ こよなきさちなれ

       

      4なすべきわざ終え みもとに行くとき

       み助け頼みて   ヨルダンを渡らん

        たえなるみめぐみ 日に日にうけつつ

       みあとを行くこそ こよなきさちなれ

       アーメン

       

      信仰告白   使徒信条

      我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
      我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

      主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、

      ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、

      死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、
      三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、

      全能の父なる神の右に座したまえり。

      かしこより来たりて 生ける者と死ねる者とを審きたまわん。

      我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、

      からだのよみがえり、永遠の命を信ず。アーメン。

       

      献金感謝の祈り              

       

      頌栄            No.27

      父・子・聖霊の ひとりの主よ

      栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン

       

      祝祷

       

      後奏

       

      ***報告***

      オンライン礼拝の最後の報告、紙の週報等でご確認ください。


      2020.10.28 Wednesday

      11/1 説教「イエスのみわざを認めて」

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        2020年11月1日

        主日礼拝

        説教 ギャリー•カルソン

        マルコ6:45−56

        「イエスのみわざを認めて」

         

        私は数ヶ月前から、マルコの福音書を通して説教してきました。マルコのすべての箇所ではなく、部分的に取り上げています。この6章の最後の箇所まで、イエス様は既に奇跡をたくさん行われました。病気を癒したり、悪霊を人から追い出したり、嵐を沈めたりです。そして前回の説教で、イエス様がわずかの食べ物で男だけで5,000人に満腹まで食べさせられたことを学びました。

         

        福音書を読んでいる時、私はよくこのように考えます。イエス様が奇跡を行われた時に、もし私もいましたら、どんなに素晴らしいことでしょう!その奇跡を目撃しただけで、直ちにイエス様を信じることができたでしょう!でも実際にはそうなったでしょうか。今日のみ言葉で、いつもイエス様と一緒にいた弟子たちでさえ、信じるのは難しいことがわかります。

         

        男だけで5,000人に食べ物をイエス様が与えられた後で、一つの大きな問題がありました。マルコの福音書には書いていません。ヨハネの福音書にはこう書いてあります。「人々はイエスがなさったしるしを見て、『まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ』と言った。イエスは、人々がやってきて、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた。」(ヨハネ6:14−15)

         

        イエス様が群衆から離れようとされたのですが、それより先に「弟子たちをむりやり船に乗り込ませ、向こう岸のベツサイダに先にいかせて」とマルコが書きました。政治的な王となるためにイエス様がこの世界に来られたのではありません。群集も、弟子たちも、そのように考えないように、期待しないように、イエス様がこのようなことをされたのです。

         

        その代わりに、イエス様は湖の近くにある山の一つに登り、祈られました。権力を、あるいは群衆の支持を求めることなく、イエス様はただ父なる神様との親しい交わりを求められました。その繋がりによって、イエス様は祈りを通して新しい力を与えられ、次の働きに向かっていくことができました。

         

        船に乗せられた弟子たちはその後どうなったでしょうか。湖の真ん中のところ、つまり湖畔から2−3キロメートル離れたところ、向かい風で漕ぎあぐねている、というふうに書いてあります。これは夜ですから、本当に大変なことです!もちろんエンジンがついている船ではないのです。彼らの体の力に頼るしかありません。

         

        どうしてか、マルコは書かなかったのですが、イエスは弟子たちのこういった状況、その困難に気づかれました。これも、イエス様の奇跡的な力でしょう。そしてもう一つの奇跡として、イエス様は湖の上を歩いて、弟子たちが乗っている舟に近づいてこられました。弟子たちの反応は当然でした。幽霊だと思って叫び声を上げました。

         

        どうして弟子たちがそうしたでしょうか。もちろん彼らは「イエスを見ておびえてしまったのである。」(50節)でもそれだけではありません。この箇所の続きではこう書いてあります。「そこで、イエスはすぐに彼らに話しかけ、『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。』そして、彼らのいる船に乗り込まれると、風はやんだ。弟子たちは心の中で非常に驚いた。」

         

        イエス様だと分かって、一緒に船に乗ってもらうことだけで弟子たちは落ち着いたはずですが、そうではありません。「心の中で非常に驚いた」という表現は、元々の言語として弟子たちはまだ不安だ、恐れが残っている、心が乱れている、という意味合いです。次の52節ではその理由が書いてあります。「彼らはパンのことを理解せず、その心は頑なになっていたからである。」

         

        弟子たちはイエス様の奇跡を自分の目で見ることができたにも関わらず、理解していない、というわけです。奇跡が行われたことを認めていないということではなく、奇跡がイエス様の権威と力を表していることを十分理解していない、という意味です。心は頑なになっていた、とありますが、この表現のもう一つの意味は、心が狭いということです。イエス様が神様から遣わされて、神様の力を持っておられることはまだ認めていないのです。

         

        私たちがマルコの福音書を学んでいる中で、もう既にこの「心が頑な」という表現を見てきました。3章、1節から6節までのところで、イエス様を訴えるきっかけを作るために、ある人たちは安息にイエス様が片手の萎えた人を癒すかどうか、という罠をかけました。それを見抜いたイエス様は、「怒って彼らを見回し、その心の頑なさを嘆き悲しみながら、」(3:5)片手の萎えた人を実際に癒されました。結果として、安息日にしてはならない「仕事」をしたイエスをどうやって殺すか、この人たちは計画を立て始めた、と書いてあります。

         

        イエス様を批判したり殺そうとしたりする人たちと、今日の箇所の弟子たちとは、両方は「心の頑なさ」がありました。3章の場合は、敵となった人たちはイエス様を否定していました。弟子たちの場合はそれと正反対でした。「心の頑なさ」でイエス様のことを十分理解できなくて、イエス様のなさっていることを認めることができなかったのですが、それにしてもこの12人はイエス様に従い続けました。

         

        実は、イエス様によってパンをいっぱい食べた群集も、この「心の頑なさ」がありました。奇跡の次の日、彼らはイエス様を見つけて、パンいついてイエス様と話し合いました。そして彼らはイエス様にこう聞きました。「それでは、私たちが見てあなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか。何をしてくださいますか。」(ヨハネ6:30)でももう、この群衆は既に奇跡を見ていたのではないでしょうか!それにしても、イエス様にしるし、つまりもう一つの証拠になる奇跡を求めました。

         

        その後はイエス様と群衆との間に討論が続きました。結果として、多くの人が文句を言い始めて、結局「離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。」これを見て、イエス様は12人の弟子たちを見てこう聞かれました。「あなたがたも離れていきたいのですか。」ペテロはこう答えました。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」(ヨハネ6:66−69)

         

        イエス様の弟子たちはまだ心の頑なさが、心の狭さが残っている中で、イエス様を信じて従おうとしていたわけです。すべてのことは把握できないのですが、イエス様に自分のすべての希望をかけていたのです。

         

        あなたはどのくらいイエス様を信じていますか。どのくらいイエス様のことを理解していますか。ここで「理解」と「信仰」とは、何の関係があるでしょうか。確かに、信じるためにはある程度の理解が必要です。ただ、私たち人間は神様のなさっていることをすべて把握できません。

         

        私は、神様が天と地を創造されたことを聖書で読んで、信じています。どうやって全てを創造されたかは私には理解できませんが、信じています。そして神様が私自身を「母の胎の内で私を組み立てられた」(詩篇139:13)ことを信じていますが、その詳しいことを説明することはできません。

         

        また、イエス•キリストが神の子でありながら、人間と同じようにお生まれになったこともそうです。イエス様の十字架の死によって、私たちの一切の罪が赦されていることも。3日目に、イエス様がよみがえられ、今でも生きておられることも。信じていますが、100%理解しているとはとても言えないわけです。

         

        今日の午後、私たちの教会の、年に2回の習慣で、墓前礼拝を行う予定です。生きている私たちより先に召された兄弟姉妹たちを、神様が天国で迎えてくださったことと、後に私たちも天国で神様に迎えられ、愛する人たちとの再会が約束される、こういうことを覚える礼拝ですね。このようなことを私たちが他の人にはうまく説明できないし、完全に理解していません。けれども、私たちはこういうことを信じています。

         

        理解しなくていい、ということではありません。私たちはこのようなことをもっと理解したいでしょう。ただ、完全な理解がなければ、信じることができない、ということでもありません。理解が足りないからこそ、信仰が必要ですね。

         

        使徒パウロは自分の信仰の歩みについて書きました。第2テモテへの手紙、1章12節にはこうあります。「私は自分が信じてきた方をよく知っており、また、その方は私がお任せしたものを、かの日まで守ことがおできになると確信しています。」ここでパウロは「信じる」と「知る」という単語を一緒に使っていますね。聖書では、「知る」の普通の意味は何かについて知るのではなく、経験とか関係の中でわかるようになる、という意味合いがあります。パウロはイエス様との関係で、イエス様の素晴らしい恵みを経験しました。その中でパウロの信仰が育まれたのです。

         

        私たちも、理解が完全でなくても、神様を、イエス•キリストを十分に信じることができます。信仰生活を経験して、イエス様との素晴らしい関係の中で、私たちの信仰も成長していきます。イエス様に希望をかけて、身を委ねて、一緒に信じて従っていきたいと思います。 


        2020.10.28 Wednesday

        11/1 牧師の書斎からNo.26

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          牧師書斎からNo.26                     

          2020年11月1日

           

          私たち家族が日本に来た時(1983年)、ハロウィンのイベントはこの国になかったように覚えています。今は違いますね。多くの若者が仮装して渋谷のスクランブル交差点で集まることが一番目立ちます。今年はコロナ禍で、集まらないように呼びかけています。

           

          ハロウィンはキリスト教との関係がある、と言うこと聞いていますか。もともとの英語の単語、Halloween というのは、二つの単語からできました。”Hallow “

          (聖なる)と”een” (evening, eve の省略で、意味は「前の夜」)が合わされました。10月31日、ハロウィンは聖なる日の前の夜ですから、11月1日はその聖なる日です。英語では”All Saints’ Day”と言いますが、日本語にすると「諸聖人の日」となります。

           

          諸聖人の日は教会の伝統として7世紀に遡って始まったそうです。その時代から、教会において祭りが行われました。先に天に召された信仰の先輩たちを覚える祭りです。クリスマス、イースター、ペンテコステという、教会の三つの大事な祭りほど大切にされていないわけですから、ある教会は守りません。

           

          守っても、守らなくても、諸聖人の日は大事なことを表しています。私たちは自分だけでイエス様を信じるようになったのではなく、誰かの証しと励ましによって神様が私たちを信仰へと導いてくださいました。その他に、私たちの前で信仰者の姿、その手本を見せてくださった方々に私たちは感謝を表すべきです。私たちより先に天に召された信仰者を私たちが覚えて、神様に感謝を捧げる諸聖人の日を大切にしたいです。

           

          私たちの新秋津キリスト教会では、諸聖人の日を守る習慣はありませんが、墓前礼拝を年に2回行う伝統があります。とても素晴らしいことだと私は思います。礼拝堂で、礼拝のプログラムの中で、先に召された兄弟姉妹たちを覚えて神様に感謝を捧げることを幾つの教会で経験してきましたが、今回私は初めて教会の墓地で墓前礼拝を行います。この機会が与えられていることで期待して、感謝します。

           

          あなたは誰によって信仰へと導かれたでしょうか。誰の信仰の姿を見て自分の信仰が強められたでしょうか。誰のことで神様に感謝を捧げたいでしょうか。もしそのような人たちが先に天に召されているなら、この諸聖人の日、墓前礼拝は特別な意味を持っているでしょう。


          2020.10.21 Wednesday

          10/25 牧師の書斎からNo.25

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            牧師書斎からNo.25                     

            2020年10月25日

             

            私は聖契神学校で「宣教学」を教えています。毎学年の半年だけで、今年度は後期の授業です。今朝は授業の2回目となリました。学生たちは10名で、今のコロナ禍ですから、授業に参加するのは校舎に来ることなく、オンライン形式で学んでいます。

             

            最初の授業で、私たちは「宣教」の意味について考えました。日本語のこの熟語として考えたら、「述べ伝えて、教える」という印象を受けるでしょう。もちろんそれはイエス•キリストについて、イエスにある救いについて人に伝えることです。でも「宣教学」の「宣教」はそれと違う、あるいはそれよりもっと広い意味合いで使われています。

             

            英語の場合、「宣教」とは “mission” です。そしてこの英語の単語の由来、その意味は面白いです。元々はラテン語の単語で、「遣わし」とか「派遣」です。そしてこれは神様の遣わしと理解すべきです。父なる神は御子なるイエス様を世界に遣わされました。十字架と復活の後で、昇天されたイエス様は信じる一人ひとりに聖霊を遣わされます。また、まだイエス様を信じていない世界に聖霊は私たち教会を遣わしてくださいます。

             

            最初のイースターの日、よみがえられたイエス様は弟子たちにこのように言われました。「平安があなたがたにあるように。父がわたし遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(ヨハネの福音書20:21)この弟子たちは「使徒」として選ばれて、特別な権威を授けて遣わされましたが、このみ言葉はその人たちだけにでなく、イエス様を信じるすべての人にも与えられています。

             

            ある教会は毎週の習慣として、礼拝の終わったところ、牧師が教会の皆さんに向かって「行っていらっしゃい!」と言うそうです。つまり一緒に神様に礼拝を献げてから、一人ひとりは教会の外にある世界へと遣わされるわけです。イエス様の証しをして、イエス様の愛を具体的な行動で示すように遣わされるのです。

             

            あなたはどこに住んでいますか。どのような家庭ですか。その近所はどのような人たちが住んでいるでしょうか。職場はどうなっていますか。そのような環境へ自分が遣わされていることを知っていますか。このように考えたことがないかもしれませんが、私たち一人ひとりはそのようにイエス様から世界、自分の世界へと遣わされているのです。

             

            ある人はそのことを聞いて、プレッシャー、あるいは重い責任を感じるでしょう。でもそれは必要ありません。イエス様に愛されて、イエス様にある喜びを覚えて、困難の中にいる時いつもイエス様が助けてくださることを信じるなら、そのように生きているなら、それは周りの人々に大きな影響を与える、と私は信じています。

            あなたもイエス様によってこの世界に遣わされた一人です。


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