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新秋津キリスト教会のブログへようこそ。 初めての方はまずカテゴリー内の「最初にお読み下さい」をご覧下さい。
2020.08.11 Tuesday

*ご家庭で主日礼拝を守られる皆様へ*

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    *ご家庭で主日礼拝を守られる皆様へ*

    週報を用いて、ご家庭で主日礼拝をお捧げになる時、プログラム通りにできない部分もあるかと思います。

    例えば、前奏、後奏、讃美などですが、できない部分は省略し、プログラムにある讃美をご存じない場合は、ご自分のお好きな讃美や、知っている讃美に変えて主を讃美して頂けたらと思います。また、始めの祈りや祈祷、祝祷の部分はご自分の言葉で祈って頂けたらと思います。現状では教会での礼拝はできませんが、私たちキリスト者は、主にあって一つに結ばれていますことに感謝し、それぞれが置かれた場で、主に心からの礼拝を共にお捧げしましょう


    2020.08.11 Tuesday

    2020年 礼拝再開に関するお知らせ

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      聖契キリスト教団 新秋津キリスト教会

      主任牧師:ギャリー・カールソン

       

      お知らせ

      新型コロナウィルスの蔓延が深刻さを増しておりますが、当教会もこの事態を重く受け止めて、、主日礼拝を、中止しておりました。その後再検討し、状況を注視しながら、9月6日(日)からの、教会での礼拝を再開する予定です。ただし、感染の状況によっては再開しない場合もございますので、ホームページ等、御確認いただけましたら幸いです。

       

      なお、礼拝中止期間中の礼拝説教の内容は、当ホームページでご覧いただけますので、ぜひご利用ください。過去の礼拝説教は、ホームページの左側にある「カテゴリー」の「2020礼拝説教」でお読みいただけます。(毎週水曜日あるいは木曜日に更新)

       

      また、主任牧師の「牧師の書斎から」、臼井先生の「床や談義」「とんぼのめがね」も掲載ておりますので、併せてご覧ください。表示されている以外の記事は、「カテゴリー」の「牧師の書斎から」「床や談義 とんぼのめがね」に保存されています

       

       

       

       


      2020.08.11 Tuesday

      8/16 週報

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        2020年8月16日 第三主日礼拝

         

        説教:臼井 勲師

        司式:神谷知晴兄

        奏楽:仁科佐保子姉

         

        前奏

         

        礼拝招詞      イザヤ書55章1節(旧約P.1261)

         

        讃詠           No.83   

        聖なるかな 聖なるかな 聖なるかな 主なる神

        主の栄光は 地にみてり 聖なるかな 主なる神

        ダビデの子に ホサナ、ホサナ み名によりて 来たる主に

        祝福あれ 栄えあれ いとも高き 神にホサナ アーメン

         

        罪の告白       詩編32 (旧約P.962)

         

        始めの祈り 

         

        主の祈り

        天にまします我らの父よ。
        ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。

        みこころの天に成るごとく 地にもなさせたまえ。
        我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
        我らに罪を犯す者を、我らがゆるすごとく

        我らの罪をもゆるしたまえ。
        我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。
        国と力と栄えとは 限りなく汝のものなればなり。アーメン。

         

        賛美            No.169

        1 ハレルヤ 主をほめたたえ 高らかに歌え

         わが心よ ひたすらに 主のみ名をたたえよ

         いのちある限り われは主をあがめん 

         ハレルヤ ハレルヤ

         

        2 世のちからとほまれとに より頼むなかれ

         人の子らはほこるとも すべては去り行く

         ただ主こそ救い ただ主を求めよ 

         ハレルヤ ハレルヤ

         

        3 さちなるかな たじろがず 主に頼るものは

         ヤコブの神  ひたすらに 待ち望む者は

         あめつち造りし 力のみ神を

         ハレルヤ ハレルヤ

         

        4 しいたげられ悩む者 飢えかわく子らよ

         闇の中にうずくまる とらわれし民よ

         正義のみ神は 解き放ちたまわん

         ハレルヤ ハレルヤ

         

        5 いつくしみに満てる主は 心にとめたもう

         きりゅうの民 嘆く子ら くずおれし母を

         慰め励ます 愛の主たたえよ

         ハレルヤ ハレルヤ

         

        6 大いなる主のみわざ そのみ名はきよし

         神の子らよ喜びて いざたたえ歌え

         父 子 聖霊の ひとりのみ神を

         ハレルヤ ハレルヤ

         

        聖書朗読      使徒の働き3章:1〜10節 (新約P.236)

         

        説教      「私にあるものをあげよう」

         

        祈祷 

         

        賛美            No.529

        1 主よ わが身を   とらえたまえ

         さらばわが心    ときはなたれん

         わがつるぎを    くだきたまえ

         さらばわがあだに  打ち勝つをえん

         

        2 わがこころは    さだかならず

         吹く風のごとく   たえずかわる

         主よ み手もて   ひかせたまえ

         さらばなおき道   ふみ行くをえん

         

        3 わがちからは    よわくともし 

         暗きにさまよい   道になやむ

         きよき風を     送りたまえ

         さらば愛の火は   うちにぞ燃えん

         

        4 わがすべては    主のものなり

         主はわが喜び    また幸なり

         聖霊もて      満たしたまえ

         さらばとこしえの  やすきを受けん 

          アーメン

         

        信仰告白   使徒信条

        我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
        我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

        主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、

        ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、

        死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、
        三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、

        全能の父なる神の右に座したまえり。

        かしこより来たりて 生ける者と死ねる者とを審きたまわん。

        我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、

        からだのよみがえり、永遠の命を信ず。アーメン。

         

        聖餐式

         

        献金感謝の祈り              

         

        頌栄            No.27

        父・子・聖霊の ひとりの主よ

        栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン

         

        祝祷

         

        後奏

         

        ***報告***

        オンライン礼拝の最後の報告、紙の週報等でご確認ください。


        2020.07.29 Wednesday

        8/2説教「医者を必要としていますか」

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          2020年8月2日

          主日礼拝

          説教 ギャリー•カルソン

          マルコ2:13−17

          「医者を必要としていますか」

           

          新型コロナウイルスの影響で、私たちは色々なことを経験することができなくなってきました。例えば、この間の4日間連休で、”Go To”キャンペーンがありましたが、結局東京から他の地域に行くことはダメ、他の地域から東京に来るのもダメ、と言われるようになりましたね。

           

          もう一つのことは友達とどこかで集まって一緒に食べることです。Zoom、FaceTime、あとは電話で人と話し合うことができますが、好きなレストランで一緒に食べるのは特別な楽しみがあります。それはどうしてでしょうか。誰でも食べなければ生きることができないのですが、家族と、友達と、職場の仲間と食べることによって、人間関係がもっと親しくなって、楽しくなるのです。

           

          私が長いこと日本で暮らしてきたことで気づいたのですが、自分の出身国アメリカよりも、日本の文化では、一緒に同じ物を作って、同じ器から口に運ぶ食べ物がたくさんあります。お鍋、すき焼き、お好み焼き、そういった食べ物です。一緒に作って、同じところからお箸で取るのは楽しいことです。

           

          他の人たちと一緒に食べるのは人間関係で大事なことですね。聖書の中でも同じことを見ることができます。旧約聖書において、神様に選ばれた民であるイスラエルの毎年の信仰生活の中で、一番大事なことは過越の祭りでした。神様が奇跡的な力を持ってイスラエル人をエジプトの奴隷制度から救ってくださったことを記念するために、子羊を屠って家族ごとに食べる習慣でした。食事ですね。

           

          そして新約聖書では、過越の祭りの習慣を、イエス様が弟子たちと共に守りました。「最後の晩餐」の時、子羊を食べてからイエス様は新しいことをお定めになったのですが、それは聖餐式です。パンを食べること、杯を飲むことによって、イエス様が十字架につけられた体、流された血潮を覚える礼典です。食事ですね。

           

          ただ、それだけではなく、イエス•キリストが3年間の地上の働きで、人々と食事をするのが大事にされていたミニストリーであったことは4つの福音書によってはっきり記されています。このことについて今日の聖書の箇所から考えてみましょう。

           

          前に、私たちはイエス様の最初の4人の弟子が選ばれたところを学びましたね。今日の箇所もそうです。今回は漁師ではなく、取税人でした。レビ、と言う男の人はガリラヤ湖のほとりにあった町カペナウムに住んでいて、税金を取る仕事をしました。ある歴史資料には、エペソと言う(現在のトルコの西にある)町で魚の税金があった、と書いてあります。もしかしたら、このレビは漁師たちから、あるいは市場で魚を売る人たちから、税金をとったかもしれません。

           

          この時代の取税人は評判が悪くて、愛されていなかったそうです。多分それは二つのことのためでしょう。一つは、税金を同胞のユダヤ人から取って、イスラエルを支配しているローマ帝国に渡したからです。もう一つの理由は、税金の決まった金額以上にとって、その差額を自分の財布に入れてしまったからです。

           

          とにかく、ユダヤ人の社会の中で、取税人として仕事をしている人たちは除け者でした。誰も一緒に食べる人はいなかったらしいです。その当時の習慣では、取税人となったら、その人は裁判の時に証言することが許されなくなってしまいました。彼はシナゴグ(ユダヤ人会堂)から除外されました。そしてその人の恥は家族まで及んだそうです。「類は友を呼ぶ」というようなことで、同じ仕事をしている人たちや他に社会から嫌われる人たち以外に、友達がいなかったのです。

           

          このような取税人であるレビをイエス様が弟子として呼ばれました。レビが仕事をしているところをイエス様が通りかかったら、「私について来なさい」と言われました。地上の3年間の働きで、特に最初の方、イエス様はカペナウムを拠点とされたので、レビはイエス様のことを前から知っていたはずです。それにしても、その場でレビが仕事を捨てて、イエス様に従ったことはすごいことですね。

           

          この箇所に書いていないことですが、同じ町に住んでいたペテロたちはこの取税人をよく知っていたはずです。職業が違う、ということではなく、取税人は悪い人に決まっている、という思いで、ペテロたちはレビを見下して、嫌っていたでしょう。しかしイエス様がわざとこのような人たちを合わせられました!

           

          次に、「イエスは、レビの家で食卓に着かれた」とあります。このことも、その当時の考え方ではありえないことでした。なぜかというと、神様のこと、その律法を教えるラビ(先生)であるイエス様は絶対にレビとその仲間たちと食べるはずがない、と。パリサイ派の律法学者たち何人かがこのことを知って、イエス様のことを厳しく批判しました。この人たちにとって、レビとその仲間たちはモーセの律法を無視していて、勝手に生きているから、彼らは下劣な人たちだ、と決めつけました。

           

          どうして一緒に食事をしてはいけない、と律法学者たちが思ったでしょうか。私たちの世界を今煩わすウイルスに合わせて考えましょう。ウイルスの感染、特にクラスタの問題は、人たちが一緒に集まって食べたり飲んだりすることが原因になることはよくありますね。律法学者たちの考えでは、あのような「罪人たち」と一緒に食べることによって、その悪さが移ることになる、というふうに思っていました。罪の影響を防ぐためのマスクはもちろんなかったのですが、少なくともそのような人たちと一緒にいること、特に一緒に食べることは避けるべきだ、という考え方ですね。

           

          しかしイエス様がわざとレビたちと食事の機会を求められたわけです。一緒に食べることによって、イエス様はこのような人たちを抵抗なしに受け入れる、歓迎することを示すことができたのです。

           

          その行動に反対する律法学者たちに対して、イエス様は比喩を用いました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」このことで、イエス様は律法学者の考えていることをある程度賛成されました。つまり、レビたちは確かに罪人です。しかし罪人が病人に似ている、という比喩で、イエス様がご自分を医者とされます。医者が病人から離れるのではなく、近づくはずです。それは病人を癒すためです。

           

          そういうわけで、イエス様は罪人を招く、と言われたのは、「私はその人たちの罪を赦し、神様の愛と恵みを提供する働きをされているのだよ」、と律法学者たちに反論しています。そのような働きをするためにイエス様が来られたわけですから、罪人に近づいて、一緒に食べるのは当たり前だ、ということです。

           

          ここでマルコの福音書のこの箇所に出ていないことを知らせます。もしかしたら皆さんの中ですでにわかっている方がいらっしゃるかもしれません。それは、このレビ、という名前の取税人にはもう一つの名前がありました。マタイです。そうです。マタイの福音書を書いた、イエス様の特別選ばれた12人の使徒の一人です。

           

          レビ、という名前は多分この人が親からつけられた名前でしょう。それでは、マタイ、という名前はどこから来たでしょうか。定かではないのですが、イエス様ご自身がつけられたのではないか、と言われています。この「マタイ」という名前は元々のヘブル語の発音では「Mattityahu」です。そのヘブル語の意味は、「神のプレゼント」だそうです。素晴らしい名前ではないでしょうか!

           

          そしてこの取税人であったレビが周りの人に嫌われたにも関わらず、イエス様との出会いによって、全てが変わりました。彼はカペナウムの除け者でしたが、今は神様から与えられたプレゼント、というアイデンティティーと価値を持つ人になりました!確かに医者で癒し主であるイエス様がこのレビの心、その人生を治してくださいました。

           

          このレビ/マタイのことで私たちは大事なことを学ぶことができると思います。私たち人間はみんな罪人ですが、そのようなことについて私たちがどう考えているでしょうか。パリサイ派の律法学者たちと同じように、自分の良さと正しさを頼りにして、他の人を見下すことができます。あるいはレビと同じように、自分の足りなさを認めて、イエス様の愛と恵みに惹かれて癒し、赦しを求めることができます。

           

          もう一度言いますが、この聖書の箇所で、イエス様がレビとその仲間たちと食事をしました。ここでイエス様は神の国の到来を部分的に実現することができました。人たちと一緒に食べることを通してですね。残念ながら、律法学者たちは一緒に食べていなかったようです。招待があったかはわかりませんが、あったとすれば、彼らは断ったはずです。

           

          私たちは今日、どうして礼拝のために集まっていますか。自分が良い人、正しい人だと誰かに示すためですか。あるいは逆に自分が足りない、弱い、罪人であって、助けを求めに来たでしょうか。そのような人を、イエス様が憐みと恵みを持って招き、喜んで迎えてくださいます。

           

          イエス様を頼りにして、今週も皆さんと共に歩んで行きたいです。


          2020.07.29 Wednesday

          8/2 牧師の書斎からNo.18

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            牧師書斎からNo.18 2020年8月2日   

            (次週から8月末まで、このコラムをお休みとさせていただきます)

             

            昨日、私たちの住まいに業者が来て、新しいガステーブルを据え付けてくれました。その前に使っていたアメリカ式のレンジが故障していたのです。工事中、妻のポリーンは出かけていました。ガス関係の工事を怖がっていたからです。

             

            ポリーンの4歳の時、家族で通っていた教会の建物が爆発してしまいました。原因は大きな暖房器のガス漏れでした。その爆発で建物が20メートル真上に飛んでしまいました。礼拝堂に置いてあった賛美歌が8キロメートル離れた畑で見つかったそうです。感謝のことで、まだ誰も教会に来ていない土曜日の朝でしたので、死亡者、怪我人は一人も出ませんでした。1キロメートル離れた、ポリーンの住まいでも爆発の音がはっきり聞こえて、建物が揺れた、と覚えているそうです。小さな子供としては大変な経験でした。ですから今でも、ガス関係の工事は近くにいたくない、とポリーンが言うのです。

             

            爆発のその土曜日は、新しい建物の献堂式より4ヶ月しか経っていない時だったそうです。新しく建てる必要があったのは、町が新しい高速道路を作るため、前の建物の土地を買ってしまいました。ですからそのことで別の土地、別の近所で新しい礼拝堂を建てることになったわけです。ただ、どこがいいかと言うことに関して、教会の人たちの間に意見が分かれて、激しい口論もあったため、分裂になってしまいました。新しい土地が決まったところで、150人の教会員のうち約3分の1が出て別の教会を探しました。非常に悲しいことでした。

             

            しかし、ガス爆発が起こった後、その人たちのほとんどが戻ってきたそうです。教会の新しい建物を建てるのはどこがいいか、と言うことについて出た喧嘩を捨てて、みんなが力を合わせて建物の再建に励みました。教会の中で新しい希望と喜びが見つかりました。教会員は前の一致を取り戻したのです。神様のみ業でした。

             

            私たち人間は教会の建物を建てることができますが、教会自体はイエス様が建ててくださいます。このことに関して、私の大好きなみ言葉の一つを思い出します。

            「ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを確かに味わいました。主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス•キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。」(第一ペテロの手紙2:1−5)

             

            主イエス様が依然として新秋津キリスト教会の私たちを聖なる、霊の家に築き上げてくださることを信じて、心を合わせて歩みましょう。


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